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ペーボ博士と檀上和尚

沈黙の響き (その123)

「沈黙の響き(その123)」

今年のノーベル医学・生理学賞を受賞したペーボ博士は

檀上宗謙住職のお弟子さん

神渡良平

 

 

「沈黙の響き」はこのところ、エリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜園長を採り上げて連載してきましたが、ここにビッグサプライズ・ニュースが届きました。今年のノーベル医学・生理学賞はスウェーデンのスバンテ・ペーボ博士に授与されることに決まったというニュースです。ペーボ博士は「沈黙の響き」(その87)で紹介した檀上宗謙(だんじょう・そうけん)西光禅寺住職に師事するお弟子さんでもあります。そこで今回はこのニュースに切り替えます。

 

スバンテ・ペーボ博士は絶滅した人類ネアンデルタール人のゲノム(遺伝情報)をその化石に含まれるDNAから解読し、古代のDNAを最先端のゲノム解析技術で読み解く新たな学問分野を開拓し、人類の進化史を書き替えた研究者です。

ペーボ博士はドイツの研究機関マックス・プランク進化人類学研究所教授で、現代人が免疫や新型コロナウイルスの重症化リスクなどに関わる遺伝子を、ネアンデルタール人から受け継いでいることも明らかにしました。そのため人類の免疫システムの新たな感染症への反応を調べることに大いに役立つと思われます。

古人類学の研究がノーベル医学・生理学賞を受賞するのは極めて異例ですが、ペーボ博士の研究成果は、新型コロナの重症化リスクの解明に関わることから、今年はペーボ博士に授与されることに決まったわけです。

 

◇檀上和尚と20年の交流

ところでペーボ博士は大の日本好きでもあります。かねがね坐禅に興味を持っていたペーボ博士は、25年ほど前、広島県福山市の神勝寺国際禅道場に坐禅に来られたとき、副住職だった檀上和尚出会って意気投合しました。檀上和尚が同県三次市の西光禅寺に移ると、檀上和尚のもとで坐禅をするようになりました。

平成25年(2013)年には西光禅寺に3か月滞在し、文藝春秋社から出版する予定の著書『ネアンデルタール人は私たちと交配した』を執筆していました。ペーボ博士は沖縄科学技術大学院大学の客員教授も務めており、先月上旬にも3日間、西光禅寺に滞在していました。

檀上和尚は先回のコラムでも伝えたように、英語が達者なこともあって、アメリカやオランダで毎年坐禅のリトリートを開催しており、東西の懸け橋になっています。今回のペーボ博士のノーベル賞受賞を通して、精神文化の交流点になっておられことがいっそうはっきりしました。

「ペーボ博士のノーベル賞の受賞が決まって、飛び上がるくらいうれしかった」

と、壇上和尚は参禅する人たちと相好を崩して喜びました。

「ペーボ博士は令和2年(2020)、日本科学技術国際賞(ジャパン・プライズ)を受賞し、授賞式には恥ずかしながら私も招待されました。日本科学技術国際賞とは、科学技術において、独創的・飛躍的な成果を挙げ、科学技術の進歩に大きく寄与し、人類の平和と繁栄に著しく貢献した人物に対して贈られるノーベル賞級の賞です。

これは松下幸之助氏が私財約30億円を提供し、昭和60年(1985)、天皇陛下隣席の下、第1回の授与式が行われました。ペーボ博士はこの栄えある賞を3年前に贈られており、今回のノーベル賞受賞も早くから取りざたされていました」

スウェーデンで生れ育ち、ドイツで研究生活を続け、世界を股にかけて講演旅行するペーボ博士ですが、心は日本に居つかれたようです。

「ペーボ博士にとって西光禅寺は自分の心を休める場であり、自分を見つめる場でもあります。坐禅によって心のケアをし、研究への集中力をますます高めていただきたいと思っています。

ペーボ博士は精進料理が好きなので、これからも私の昔ながらの手料理を食べ、ご一緒に緑茶を飲んで、くつろいでいただきたいと願っております。いつも物静かなペーボ博士は、優しい心でどんな方々にも接せられ、研究内容についての質問も丁寧に話されます。何よりも毎朝の祈りの時間には般若心経を唱え、深い祈りの生活をされています」

 私たちの「沈黙の響き」欄もこうして檀上和尚やペーボ博士にご縁をいただいてとても感謝です。この秋、最大の朗報でした。今度は檀上和尚とペーボ博士を囲んで乾杯しましょう。

ペーボ博士と檀上和尚

ペーボ博士著書

西光禅寺でのペーボ博士

ぺーボ博士

瞑想するペーボ博士

写真=ペーボ博士と檀上和尚 ペーボ博士の著書『ネアンデルタール人は私たちと交配した』 抹茶を楽しむペーボ博士 仏壇の前で ⑤「日々の瞑想は欠かせません」とペーボ博士 


澤田美喜と子どもたち

沈黙の響き (その122)

「沈黙の響き(122)」

威勢のいい鯛を閉じ込めていた金魚鉢

神渡良平

 

◇直木賞作家の深田祐介さんの澤田美喜評

『炎熱商人』(文藝春秋)で直木賞を取った作家の深田祐介さんは、澤田廉三・美喜さんの千代田区一番町の鉄筋コンクリート4階建ての英国風大邸宅「サワダハウス」の隣に住んでいました。千代田区一番町というと皇居の北隣になる超一等地ですが、深田家は代々江戸城の大奥のご用向きを扱う商人だったので、そんな土地に住んでいたのです。

 

深田祐介さん自身は美喜さんよりも30歳も歳下ですが、隣なので近所づきあいがあり、しかも澤田家と深田家の女中同士の間に漏れ出てくる話に裏打ちされているので、より素顔の美喜さんを感じることができます。深田祐介さんの弁。

「奥さまはきわめて自由奔放ですが、旦那さまの廉三さんはものすごいジェントルマンでした。暁星小学校に通っていたぼくが歩いているのを見つけると、何十メートルも向こうで帽子を取って挨拶されたもんです」

 

 一番町界隈でも岩崎家というのは特別な存在で、それが深田さんの話っぷりからも感じられます。

「そりゃあ美喜さんはやっぱり三菱財閥の岩崎家のお嬢さまで、格上でした。それにまたとても傍若無人で、威張っていました」

 深田さん自身、日本航空に勤めており、ロンドン支店勤務時代に見聞したことを書いた『新西洋事情』が大宅壮一ノンフィクション賞を得ていますが、そうした交流が言葉の端々に現れています。

「美喜さんは(当時有名な赤星というゴルファーにも)『おい赤星、最近の調子はどうなの?』という調子で話しかけるし、同じ町内の端に住んでいらっしゃった哲学者の串田孫一先生にも『孫ちゃん、元気?』って調子です。推して知るべしです」

 

『GHQと戦った女沢田美喜』(新潮社)を書いた青木冨美子さんが深田さんに、

「威張っていて嫌な感じ? それともざっくばらんでおもしろい人?」

 と尋ねると、極めて率直な返事が返ってきました。

「それは後者、ざっくばらんでおもしろい人でした。美喜さんは隣組常会でいつも奔放な発言をするので、近隣のスター的存在だったのです」

 美喜さんは深窓の令嬢だったのではなく、隣近所の人たちから愛されていたのです。

 

◇美喜さんの熱心な信仰とそれに裏打ちされた実行力

美喜さんがエリザベス・サンダース・ホームを開設して混血孤児たちを養育し始めると、口さがない人たちはいろいろ取り沙汰しました。深田さんは美喜さんに対する噂が、

「何てもの好きな……日本を滅ぼした敵の子ですよ」

とか、

「パンパンが産んだ子を養育するとは何事だ。捨てておけ」

「ああ、あのコレクション好きがまた始まった。収集癖がこうじて、今度は混血の孤児たちを集め出したわよ」

などと、冷ややかな感じで語られていたと言います。しかし、孤児たちの養育を始めたことに対して深田さんは、

「でも、収集癖だけでは混血孤児の世話はできませんよ。美喜さんは非常に熱心なキリスト教徒でした。それに裏打ちされた熱い信仰があり、その発露としてあの社会福祉をされたはずです。それを見落すと美喜さんの社会福祉事業の真意を見落とすことになると思う」

 と、敬意を隠しません。

 

 深田祐介さんは美喜さんのことを「隣のオバサン」と表現して親近感を表します。それだけに、美喜さんをマスコミがあたかも“聖女”であるかのように書き立てると、

「それはちょっと違うんだよなあ」

と、疑問を投げかけます。

 

「ぼくは今でも美喜さんという隣のオバサンにはすごく親近感を持っています。でもマスコミが聖女みたいに書くのは間違っています。美喜さんは平気で、

『洗濯が間に合わないもんだから、いま主人の猿股はいているのよ』

なんて言うんです。隣でご主人が咳払いをしていました。あんなスケールがでかかったお嬢さんはいなかったなあ」

 そんな表現に美喜さんの実像が浮かび上がってくるようです。

 

◇人に謝ることができなかった人

 聖路加(ルカ)病院のチャプレン(施設付き聖職者)をしていて、美喜さんとも日常的な交流があった竹田真二司祭はこんな経験を語ります。竹田司祭は聖公会の聖職者でもあります。

 竹田司祭が美喜さんのあまりのわがままさに耐えきれなくなり、

「勝手にしなさい」

 と、怒鳴ったことがありました。それに対して美喜さんも負けておらず、

「ああ、いいですよ。勝手にさせてもらいます!」

 と、啖呵を切り、喧嘩別れをしたことが一度ならずありました。

 

 でもしばらくすると美喜さんのほうから竹田司祭に電話がかかってきて、

「築地においしいお寿司屋があるんですけど、出ていらっしゃいませんか?」

 と、誘うのです。それでやむなく竹田司祭が出掛けていき、いっしょに寿司をほおばっているうちに、いつのまにかうやむやになって元の鞘(さや)に納まってしまいます。美喜さんからはお詫びの一言が出たわけでもありません。

 美喜さんを知る人は、「人に謝ることができない人だった」と述懐します。複数の人が語っているところを見ると、これまた美喜さんの哀しい性(さが)だったようです。

 

母を家に閉じ込めておくのは、勢いのいい鯛を金魚鉢に入れておくようなもの

 美喜さんをいつも突き動かしていたのは、顔負けの行動力でした。美喜さんの長男の信一さんが母親の美喜さんのことを、

「母を家に閉じ込めておくのは、勢いのいい鯛を金魚鉢に入れておくようなものです」

 と評していますが、実に当を得た観察です。美喜さんはあり余るエネルギーを持て余していて、もっと社会に出て何かをしたかったのです。三菱財閥をつくり上げた祖父の岩崎彌太郎の事業欲が美喜さんの中で渦巻いていて、エリザベス・サンダース・ホームというアイデアで噴き出したと言えるようです。

 

長男の信一さんはじめ、長女の恵美子さんは「自分だけの母親」でいてほしかったようですが、金魚鉢で鯛は飼えません。家を飛び出して社会福祉に一生懸命になった母親に、寂しい思いもしたようです。恵美子さんは国連大使になった父親廉三(れんぞう)さんのお世話をニューヨークでしているうち、ある大手の宗教団体の活動にのめり込んでいきました。家庭的には必ずしも平穏だったわけではなかったようです。

 

 まわりの人にそう評価されていると知ってかどうか、美喜さんはジャーナリストの青木冨美子さんに自分をこう語っています。

「私の外となる心は、ドン・キホーテのごとく大見得を切りますが、内なる心は、夜子どもたちが寝静まって一日の戦いが終わると、くず折れるように、寝室の壁にかけられた十字架にひざまずいて祈ります。涙の中に祈り明かしたことが幾夜もありました」

 

 家族の賛成を必ずしも得られないまま乗り出した社会事業の困難さに、十字架の前で一人泣いている美喜さん――何とも痛ましい限りです。イエスはそんな美喜さんの哀しみを知っておられました。

澤田美喜と子どもたち

写真=昭和23年、ホームを始めたときの8人の子どもたちと美喜園長


イエスが被らされた茨の冠

沈黙の響き (その121)

「沈黙の響き(121)」

自分の中の激情と闘った澤田美喜さん

神渡良平

 

 前回の「沈黙の響き」(119)で、手に負えないワルだったM君が立ち直り、無事に結婚して、「ママちゃま(澤田美喜さん)のお陰で、ぼくは立ち直ることができた」と感謝していたことを書きました。そうすると美喜さんは誰でも受け入れてはぐくみ、聖母マリアのような慈しみにあふれた人だったかというと、必ずしもそうではなかったようです。

 

 美喜さんは外交官夫人としてイギリス大使館に勤めていたころ、3人の子どもたちの養育をしてもらっていた女性のしつけがとても厳しかったのを見て賛同していました。だからホームで子どもたちをしつけるとき、とても厳しいものがありました。

 それについて、美喜さんにホームが開設された初期からホームのメインテナンスを手伝い、子どもたちの養育も手伝った鯛茂(たいしげる)さんが興味深いことを語っています。

 

◇厳しい折檻

 鯛さんがホームに勤務し始めて間もないころ、美喜園長が子どもたちをあまりにも厳しく折檻(せっかん)するので驚きました。怒り狂う美喜さんをいくらなだめても逆効果しかありません。美喜さんに対する怒りが爆発しそうになったので、鯛さんは慌てて聖ステパノ礼拝堂に駆け込みました。鯛さんは内村鑑三のような実直な信仰者だとして、ホームの職員たちみんなに慕われていたので、余程のことだったのでしょう。この礼拝堂は南溟の孤島で戦死した美喜さんの3男ステパノ晃さんに因んで建てられた礼拝堂です。ステパノは晃さんの洗礼名です。

 

 深い信仰者である鯛さんは、

20分間祈ろう。祈って冷静になり、もう一度説得してみよう……。

20分経ってまだ折檻が続いていたら、体でもって阻止しよう)

と思いました。美喜さんは財閥家の令嬢で、家では50人もの使用人にかしずかれていて、人から折檻されたことがないので、折檻されたことがなく、折檻がどんなに辛いことかわからないのだと思いました。

その20分がどんなに長かったことか――。

 

鯛さんが祈り終わって現場に戻ってみると、驚いたことに美喜さんは嘘のように穏やかになっていました。先ほどまで体罰していた子どもたちにカステラとジュースを与え、抱きしめてさえいました。鯛さんはあっけに取られてしまいました。美喜さんは感情の起伏が激しくて、自分の激情を抑えることができなかったのだと思いました。

 

 そういうことがあって、美喜さんのことが少しずつわかってきました。

「美喜さんはわがままというより、幼児的だと言った方が当たっているかもしれない。人に謝ることができないから、礼拝堂で神さまに余計深く謝っているのだ……」

 

 鯛さんは美喜さんのことを、

「昼はカミナリ、夜はマリア」

 と、描写しました。いたずら盛りの子どもたちを抱えているホームを運営することは容易ではなく、美喜園長はしばしばかんしゃく玉を破裂させていました。美喜園長自身それを悔んで、夜は礼拝堂で
聖母マリアさまに独り懺悔していたのです。

古武士のように実直な鯛さんはその実情を理解すると、

(それだったら及ばずながら、どこまでも支えていこう)

 と決意しました。それが長く続いた理由でした。

 

◇美喜さんの駆け込み寺だった聖ステパノ礼拝堂

 美喜さんはこの聖ステパノ礼拝堂を自嘲気味に、

「私の駆け込み寺」

と呼んでいました。むつかしいことに出合ったとき、礼拝堂で胸を打ち叩いて、ロザリオを数珠のように繰りながら、道が開かれるよう祈っていたのです。

 

ロザリオはラテン語で「バラの冠」を意味します。イエスが処刑されるゴルゴダの丘に向かったとき被らされた「茨の冠」にちなんでいると言われます。10個ほどの珠が輪のようにつながり、十字架やメダイがついています。

ロザリオの祈りは、最初の一珠で「主の祈り」を唱え、そこから十個の珠をたぐりながら「アヴェ・マリアの祈り」を十回唱えます。そして結びに栄唱を唱え、ここまでで一連と呼びます。それを何回もくり返して祈ります。

 

“祈り”は美喜さんの力でした。自分の幼児性や激情を抑え、ホームの子どもたちや保母さんたちにやさしく当たるため、慈愛の力をいただくかけがえのない時間だったのです。

 

エリザベス・サンダース・ホームに併設された澤田美喜記念館には、美喜さんが長年にわたって収集した隠れキリシタンの遺品がたくさん収納されています。でも、それらは“単なる遺物”ではありません。美喜さんは礼拝堂で祈るとき、細川ガラシャ夫人がたぐったであろうロザリオを繰り、隠れキリシタンたちが仰いだ白磁のマリア観音にひたすら手を合わせたに違いありません。聖公会ではカトリックが行うように、ロザリオを繰りながら祈ることはありませんが、美喜さんは終生ロザリオを放しませんでした。

イエスが被らされた茨の冠

ロザリオ2

写真=イエスが被らされたというバラの冠とロザリオ

 

 


エリザベス・サンダース・ホーム1

沈黙の響き (その120)

「沈黙の響き(その120)」

家庭を犠牲にして運営されたエリザベス・サンダース・ホーム

神渡良平

 

 

◇母を求める子どもの思い

 令和4919日の産経新聞の「朝晴れエッセー」に、埼玉県富士見市の岡彩弥(あやね)さんの「特別な日」という手記が載りました。その手記は、子どもが母を求める思いがどんなに切実なものであるか、教えてくれました。

「私にとってお母さんと2人っきりでお出かけすることは特別なことです。なぜなら私には姉と妹がいて、お母さんと2人きりになることが少ないからです」

おやおや、どんなことを書いているのだろうと、私はその手記を読みすすみました。

「昔は姉が小学校に行っている間に2人きりで出かけることができましたが、私が幼稚園の年中組のときに妹が生まれて、そういうことが少なくなってしまいました。

 その当時、実は本当に悲しかったのですが、私はがまんすることができました。理由は、私は小さい子のお世話が好きだからです。

 今は妹も幼稚園生になり、小学校の振り替え休日に、またお母さんと2人でお出かけできるようになり、とてもうれしいです」

 ほう、お母さんと2人っきりでお出かけできることがそんなにうれしいの! と正直驚きました。お母さんとは毎日いっしょなのに、お母さんと2人きりになり、独占できることがよほど嬉しかったようです。彩弥さんの手記は続きます。

「お母さんと2人きりのときは、ふだん家では話せないことや、2人だけのひみつのことを話したり、ゆっくりごはんを食べて、映画を見たり、のんびりお買い物することができます。

 お母さんも私と2人でごはんを食べているとき、“幸せだね”と言ってくれるので、私もとっても幸せな気持ちになります」

 なるほど、お母さんが自分に注いでくれている愛情を確認できるから、とっても幸せな気分になるんだ。

「お母さん、運動会や行事のときに、朝早く起きて、お弁当を作ってくれたり、家のことをたくさんしてくれてありがとう。

 来年は妹が小学生になるので、休みの日もいっしょになることから、またお母さんと2人きりでお出かけができなくなってしまいます。私はここに書ききれないくらい、お母さんのことが大好きなので、これからもたまにはいっしょにお出かけしてください」

 小学校2年の女の子の中に、こんな思いがあったのかと知り、目頭がちょっとウルウルしました。子どもが母を求める思いには切ないほどのものがあったのです。

 

◇「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 そしてはっと気づかされました。いま連載している澤田美喜さんの3人目のお子さんで

長女の美恵子さんがお母さんに食ってかかったことがありました。

「ママ、私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 おそらくそれは、先に引用した彩弥さんの手記が暗喩しているように、美恵子さんの必死の叫びだったに違いなく、もっとも核心を突いた声でした。

そう詰問されて美喜さんは狼狽しました。面と向かって問い正してほしくないことだったに違いありません。

次の瞬間、美喜さんは恵美子さんの頬をはたきました。お母さんにはたかれて、恵美子さんは部屋に駆けこんで泣きじゃくりました。はたいた美喜さん自身呆然自失したまま、そこに立ち尽くしました。

そこでようやく私は、美喜さんがエリザベス・サンダース・ホームを運営していく陰には、家庭を犠牲にしているという痛みがあったのだと思い至り、厳粛な気持ちになりました。

(あれはただの慈善事業ではなかったのだ。戦争の落とし子として混血孤児たちが生み落とされ、誰も世話する者もなく路傍に打ち捨てられているのを見たとき、美喜さんは、

「この子たちを打ち捨てては、戦後処理は終わらない。ならば私がそれを背負って立とう」

 と、決意したに違いありません。

しかし、夫は国を代表するような外交官であり、家庭には育ち盛りの3人の子どもたちがいます。そこに戦争孤児たちを世話する事業を加えることは尋常一様なことではありません。どれかを犠牲にしなければならないと思い、美喜さんは家庭を捧げようと思ったに違いありません。お嬢さんが泣きながら、

「私たちとホームの子どもたちとどっちが大切なの?」

 と迫ったとき、思わずお嬢さんの頬をはってしまいましたが、あのあと美喜さんは礼拝堂に駆けこんで、

(ごめんなさい、恵美子。お母さんをゆるして。エリザベス・サンダース・ホームを開き、混血孤児たちの養育と始めた以上、もう投げだすわけにはいかないの)

と、泣いて詫びたに違いありません。そんな涙があったからこそ、ホームは荒波にも何とか耐えて維持され、多くの子どもたちを育て上げ、巣立っていったのです……。

 私は、いまは主なき大磯のエリザベス・サンダース・ホームにたたずんで、そこここに涙の痕がしみ込んでいると知りました。

エリザベス・サンダース・ホーム1

写真=エリザベス・サンダース・ホーム


澤田美喜3

沈黙の響き (その119)

「沈黙の響き(その119)」

立ち直ろうとするМくんを支え励ました澤田美喜さん

神渡良平

 

 

 戦後、アメリカ兵(GI)と日本の女性との間に混血児が生まれて巷にあふれたころ、捨てられた混血児を見捨ててはおけず、澤田美喜さんは大磯のエリザベス・サンダース・ホームで養育し始めました。その努力によって多くの子どもたちがすくすく育ち、社会に旅立っていきました。また、アメリカ兵の養子として、米国に旅立っていった混血児たちも大勢ありました。それは美談としてマスコミに取り上げられ、テレビで特集番組が組まれて報道されました。それは戦後の荒廃した世相に咲いた一輪の花だったと言えます。

 

 ところがその反面、とても手を焼く子どもたちもあり、いったいこの子たちには人間らしい感情はあるのかと疑わざるを得ないことも多々ありました。美喜さんはこの子たちを何とか正しい道に引き戻す手立てはないものかと思い悩み、苦しみました。これでもかこれでもかと、次から次へと心を痛めさせられることが続き、どんなに悲しんだかしれません。

 

 聖ステパノ学園中学校を卒業後、すっかり悪ガキになってしまった少年たちが週末の夜、集団でホームを荒らしに来たこともありました。教員室や家庭の鍵を壊し、窓ガラスを破って侵入し、食料品や電気釜などを盗むのです。あるときはホームの子どもたちがひよこのときから大事に育てていたニワトリを絞め殺して焼き鳥にして食べてしまうなど、どう見ても意地悪としか思えないことをしてうそぶいていました。

 

 彼らの行動はだんだんエスカレートして、深夜、子どもたちの宿舎にカンシャク玉を投げ込み、女を連れて教室にもぐり込んでシンナーを吸い、桃色遊戯に沈溺しました。乱暴狼藉は大磯の町にも及び、コソ泥をくり返しました。美喜さんたちはほとほと困ってしまい、お詫びしてまわりました。

 

 美喜さんや保母さんたちは深夜、彼らを追っかけて、ホームの周りの山坂を駆けまわったことが何十回となくありました。もし自分の死期が早まるとしたら、このときの無理が原因だろうと思ったほどでした。捨て鉢な悪ガキたちはいつも他人の迷惑を考えず、自分さえよければいいと行動しており、何につけてもひがんで、

「どうせ俺たちは……」

と愚痴っていたのです。

 

◇М少年がくり返す非行

 その中にМという少年がいました。Мくんはどの悪行にも加わっているワルでした。憎々しげな口をきき、大物ぶっていましたが、どこかにまだ純情さが残っており、それが美喜さんに彼はまだ引き戻せるのではないと思わせました。

その彼が聖ステファノ学園中学校を卒業して初めてもらった給料で、美喜さんに心臓の薬を買ってきてくれたのです。美喜さんは小躍りして喜びましたが、彼にたびたび迷惑をこうむっていた他の教師たちは、

「な~に、またまたびっくりするようなことをしでかすから、驚いて心臓が破裂しないように皮肉をこめて買ってきただけですよ」

 と、彼のプレゼントをまじめに受け取ろうとはしませんでした。

 

たとえその通りであるとしても、美喜さんはそうは思いたくありませんでした。英国の友人が美喜さんにこう言ったことがありました。

「敵を敵として取り扱ったならば、その敵はいつまでも敵です」

 美喜さんその考えに深く共感し、Мくんに立ち直る機会を与えようと努力しました。そして壊れかけていた関係が修復されるたびに、忍耐してよかったと感謝したのでした。

 

 Мくんは不思議な少年でした。耳をふさぎたくなるような毒舌を吐き、ふてぶてしい態度を示す一方では、カラス、豚、犬など、死にそうになっていた動物を生き返らせて、見事に飼いならす特技を持っていました。彼に助けられた鳥や動物がなついて、彼について歩くのを見たら、Мくんは根っこには善良なものを持っているはずだと思わざるを得ませんでした。

 

◇立ち直ろうとするМくんの健気な意志

 そうしている間に、Мくんが悪い仲間から少しずつ遠ざかり始めました。

何と、恋をしたのです。そのころから、

「どうせぼくなんか……」

という捨て鉢なセリフを吐かなくなりました。それどころか、美喜さんはМくんから殊勝な気持ちを打ち分けられたのです。

「ぼくはあの子を逃したら、もう二度とああした子にはめぐり逢えないと思う。だから何としてもこの恋は実らせたいんだ……」

 

 その真剣な態度には、かつて持っていた自暴自棄の色はなく、瞳からシンナーで濁った光は消えていました。彼女の両親はまだ彼らの恋に気づいていませんでした。もし娘が不良少年と付き合っていると知ったら、両親は必ず拒絶するに違いありません。美喜さんは、

(何とかしてこの恋を実らせてあげたい。きっと立ち直るきっかけになる!)

 ある日Мくんに訊いてみました。

「ママがその子の親御さんにお会いして、あなたの本気度を話そうか?」

 Мくんはしばらく黙っていましたが、やがてコクリとうなずきました。それしか彼女の両親を説得する方法はないと思ったのです。

 

 そこで美喜さんはご両親に長い手紙を書きました。Мくんが生後8か月でエリザベス・サンダース・ホームにやってきてから今日に至るまでのことを包み隠さず書きました。そしてМくんは娘さんの愛情で救われ、立ち直ってきたこと、自分も彼の母として今後も見守っていくので、どうぞ2人の付き合いを認めてほしいと訴えました。

 その結果、美喜さんとМくんの誠意は先方に伝わり、2人の交際を認めてもらいました。

 

◇愛情ほど自立を支えるものはない

 娘さんとの付き合いが深くなるにつれ、娘さんの愛情は悪友の誘いの陰に隠れていた彼の善良さを引き出し、自立できるまでになりました。そして2人は、彼が幼児洗礼を受けたホームのチャペルで結婚式を挙げ、新生活をスタートしました。Мくんは美喜さんにお礼の手紙にこう書いています。

「ぼくは長い間、いつ彼女の親に見つかるかとビクビクした生活をしていたんです。でも今は晴れてみんなに祝福され、明るい日を送っています」

子どもも授かったМくんの生まれ変わったような目の色に、美喜さんは救われた思いがしました。

 

あの古武士のような謹厳実直な運転手兼秘書の鯛茂(たいしげる)さんに、

「昼はカミナリ、夜はマリア」

と評された美喜さんです。「ママちゃまは怖かった!」と一様に言う在園者たちが、それでもなおなぜママちゃまを慕うのか――私はつらつら考えました。

ここで採り上げたМくんのように、自分の立ち直りを助けてくれたと感じた青年たちは、美喜さんを“生涯の育ての親”と慕いました。彼らはママちゃまが自分に注いでくれた愛は掛け値なしに本物だったと感じています。

 

もちろん、人間の世界でのことです。すべてが良い実を結ぶことはあり得ません。ママちゃまはえこひいきが多かったと否定的に捉える人もたくさんいます。それも事実でしょうが、美喜さんの援助で立ち直った青年があることも事実です。私は善意が実った事例を評価したいと思います。

澤田美喜3

 

写真=ありし日の澤田美喜さん


波乱万丈の人生だったと語る

沈黙の響き (その118)

「沈黙の響き(その118)」

自分を捨てた母を赦した東谷米子さん

神渡良平

 

◇就職でも社会から拒まれ、
アマゾンへ渡った

中学校を卒業して社会に出ると、黒田俊隆さんは就職差別という壁に直面しました。そこで澤田美喜さんはホームの卒園生たちを新天地ブラジルで農場を開拓させようと考え、5ヘクタール(東京ドーム約一個分)もの土地を入手しました。黒田さんはその第1陣としてブラジル・アマゾンに移民したのです。日本に未練はありませんでした。

 

三菱から耕作機械を提供され、美喜さんも毎年訪れ、将来はここに移住しようと考え、国籍まで取得しました。しかしアマゾンの開拓は容易ではありませんでした。黒田さんたちは10年以上奮闘したものの、アマゾン開拓の夢は破れ、ついに断念しました。

黒田さんは帰国して再出発を余儀なくされました。ようやく看護師の資格を取得し、自分のように理不尽な差別を受ける人を支えたいと思い、岩手県の精神病院で定年まで勤めました。

 

今回見つかった母たちの手紙から、黒田さんは感じたことがありました。

「お袋が産んでくれたから今の俺がいる。それは絶対間違いない。そしてホームで育てられたから、今の俺がいるんだ。

産み捨てるっていう言葉は嫌いだけど、手紙を読むと、母親たちは産み捨てるような状況じゃなかったんだ。万策尽きて、子どもをホームに預けざるを得なかった。親が悪いんじゃないんだよ。

 戦争があったから俺たちが生まれているわけであって、憤りをぶつけるとしたら戦争だ。戦争自体がダメなんだ」

 黒田さんの75年の人生に裏打ちされた言葉は重たく響きます。

 

◇付きまとう“差別”感情に苦しんで

もう一人のホーム出身者の東谷米子さんはホーム卒業後間もなくして、日本人の男性と結婚し、3人の子どもに恵まれたものの、苦労の連続でした。ホームにいたころに所得したマッサージ師の資格を頼りに、昼も夜も必死で働きました。自分と同じ思いをさせまいと懸命に子育てをしましたが、自分の子どもたちもまた混血児と言っていじめられました。

「小学校に入るとき、子どもに何でいじめられるのか説明しました。日本とアメリカの戦争で、おじいちゃん、おばあちゃんの息子が兵隊にとられて戦死されたかもしれない。そのおばあちゃんにとってアメリカは憎き敵国になる。その腹いせが、米兵との混血児のお前に向かっている。お前はそういう歴史を背負って生きているんだから耐えなきゃいけない」

 いたいけない子どもに、いじめられる理由を話さなければならないとは酷な話です。それとともに、米子さんはホームでの楽しかった体験談を語りました。

「お母さんはエリザベス・サンダース・ホームで、いい人たちに育てられたんだ。でもあんたたちは町の普通の小学校の800人の生徒の中へ、きょうだいだけで入っていかなければならない。だからいじめられるもんだって思いなさい。お前たちは責められる必要は全くないけど、これも宿命だから受けるしかない」

 

母親に会いたいの一念で……

米子さんは、同級生がまぶたの母に会いに行き、傷付いて帰ってくる姿を何度も見てきました。

「みんな大人になってから、ホームの同級生や後輩たちがお母さんを探したいって言いだすんです。私はやめなさい、訪ねていったら、あんたは2度殺されるよって言いました。1回目はホームに連れてこられ、捨てられて殺された。2度目は会いに行って邪険にされ、また殺される。

今さらお母さんに会いたいなんて言って訪ねていって、お母さんがあんたを抱きしめてくれると思うの?

 

お母さんはあんたをホームに置き去りにしてきたという後ろめたさがあるから、邪険にするわけにはいかないけれども、あまり慕ってもらっても困るんだよ。向こうには家庭があるし、過去を暴き立てられたくないという思いもある。それが現実だよ。だから遠くから見ているだけにしなと言いました。

でもね、生みの母に会いたい一心で訪ねていって、深く傷ついて帰ってくるんだ。いたたまれないたりゃありゃしない」

そう言って米子さんは目頭を押さえました。

 

◇私の母は私を抱いて、屋上から飛び降りようとしたそうです

 そう述懐する米子さんは生みの母についてこんな体験をしたそうです。

「私は自分からは母親に会いに行かないと決めていました。ところが大人になって偶然、母親の所在がわかり、自分の出生の事情を知ったんです」

 

米子さんの母親は、戦後、今のソウルから日本に命からがら引き揚げてくる途中、護衛として派遣された米兵と親しくなり、日本に到着したときにはすでに妊娠7か月になっていました。母親の家族は、出産後すぐに米子さん母子を引き離し、施設に入れることにしました。施設の人が迎えに来る前の日、母親は米子さんを抱えて病院の屋上から飛び降りようとしたそうです。

 

「それを知って、私はお母さんがかわいそうだなと思いました。私なら発狂しちゃう。子どもは絶対離したくない。でもあの時代、子どもを育てて行くことがどれくらい大変だったか。育てたくてもできなかったというのが実際です。子どもを手放したくて手放したわけじゃないんだ。非情な母親ばかりじゃない」

 米子さんは母親が自分を抱いて飛び降り自殺をしようとしてことを知り、母に同情し、母親を赦しました。

夫を看取ったあと、米子さんは今年、ひとり大磯町に引っ越してきて、マッサージ店を開業しました。残りの人生を、育ったホームのそばで過ごしたいというのです。

 

◇不朽の名著『母をたずねて三千里』

かつてイタリアのエドモンド・デ・アミーチスが書いた『母をたずねて三千里』(青空文庫)という物語がありました。アルゼンチン共和国の首都ブエノス・アイレスに出稼ぎに行ったまま、音信不通になった母アンナを尋ねて、息子のマルコがイタリア・ジェノヴァからアルゼンチンへ渡る冒険の旅を描いた物語です。

 

 旅の途中、マルコは何度も危機に陥りましたが、そこで出会った人々に助けられ、大きく成長していく物語でした。この物語はフジテレビでもアニメ化され、多くの人に感銘を与えたので、ご記憶に残っている方も多いかと思います。子が母を慕う話は永遠不滅です。母と子の絆はそれほど深いのです。

 

今回見つかった母親たちが寄せた手紙から米子さんが思うのは、今も世界で起きている戦争とそこで生まれ育つ子どもたちのことです。

「ひとたび戦争が起きたら、自分たちのように敵対する関係の中で子どもが生まれます。すると同じように差別が繰り返されます。今の時代にそんなことは起こらないと思うかも知れないけれど、戦争は絶対になくなりません。戦争だけはしてほしくない」

“敵兵の子”とレッテルを貼られ、戦後77年を生き抜いた米子さんは平和への願いを切々と訴えました。

波乱万丈の人生だったと語る

ありし日を語る東谷米子さん

写真=思い出を語る黒田俊隆さん

母を恋い慕う仲間たちを支えた東谷米子さん


エリザベス・サンダース・ホームの入り口のトンネル

沈黙の響き (その117)

「沈黙の響き(117)」

NHK・WEB特集「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙

神渡良平

 

 

 エリザベス・サンダース・ホームと澤田美喜さんのことを連載しているうち、NHKが826日、WEB特集で「“敵兵の子”と呼ばれて――わが子を手放した母たちの手紙
」を
社会部記者の小林さやかさんが報告しました。戦後77年を経ているにもかかわらず、当事者たちの証言は当時のことを伝えています。そこで前後2回にわたって、その内容をお伝えします。

 

◇エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネル

大磯のエリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に、幼い男の子を置いて立ち去る母親……。泣いて追いかける子どもの声がそのトンネルに響く。

でも、若い母親は耳を覆うようにして駆け去り、振り返ることはありませんでした。引き裂かれたその母親の気持ちを表すかのように、両頬は涙でぐしょぐしょに濡れていました。

 

終戦直後、日本人の女性と米兵などとの間に生まれた子どもたちに幾多の悲劇がくり返されました。私たちの国が否定しても否定し去ることができない負の遺産です。

今年、その母親たちが澤田美喜さんに宛てて書いた19通の手紙が発見され、NHKのWEB特集が放映されました。あの子たちはなぜ母のもとで育つことができなかったのか――戦後77年を生き抜いた卒園生の証言です。

 

エリザベス・サンダース・ホームに通じる暗いトンネルの入り口に立って、当時のことを語るのは、今年75歳になったホーム1期生の東谷米子さんです。

「お母さんが3歳くらいの男の子を置いて、逃げるんです。そしたらトンネルの入り口を、

ママー! ママ-! 

って呼んで、追いかけるんだよ。泣いて、泣いてね。

でも、お母さんは振り返らずに、トンネルの中を駆け抜けて行く。

それを私は見てたの。毎日、毎日、同じことが繰り返されていた――」

涙なしには聞けない証言です。エリザベス・サンダース・ホームには悲しい話がいっぱい詰まっていました。

 

トンネルの先にある「エリザベス・サンダース・ホーム」は、戦後、日本の女性と米兵など外国人兵士との間に生まれた子どもたちを養育するため、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の孫、澤田美喜さんが私財を投げだしてつくった孤児院です。

当時、子どもたちは“敵兵の子”などと呼ばれて差別されていました。昭和23年(1948)に最初の子どもを受け入れて以来、昭和55年(1980)、79歳で亡くなるまで、30年余りの間におよそ2000人を養育しました。今は一般的な児童養護施設として運営されているホームには、当時の資料が残されています。

 

その中からホームに子どもを預けた母親などが澤田美喜さんに寄せた19通の手紙が見つかりました。それぞれの手紙に母親たちは心の内を吐露していました。その手紙の一つは米兵とのことをこう訴えています。

 

「結婚するつもりだったその人は、今アメリカの本国へ帰ったまま何の便りもありません。それに最後に逢ったときは、誰れの子かわからないから養育費も出せないなどと言います。そんな! そう聞いて身が張り裂けるようでした」

 恋人の米兵を米国に送り出すまで、さまざまな修羅場があったろうことがうかがえます。

「主人に捨てられ、職もなし、お金もない今、〇〇〇(子どもの名前)を抱えていたら、私はどんなにじりじりと心を乱して、飢え死にするだけです……」

 

 明らかに生活苦からエリザベス・サンダース・ホームを頼ってきたようです。しかし信じられないような悲劇に襲われて女性もありました。

「私は池袋駅西口で進駐軍兵士2名にピストルで脅されて強姦され、妊娠し、この子を出産しました……」

大陸からの引き揚げる途中、強姦された女性、外国人兵士と恋愛関係になった女性、体を売って生計をたてた女性……手紙には母親たちが抱えた苦難が書き綴られていました。さまざまな事情の中で外国人兵士の子どもを宿し、多くの外国人兵士は女性と子どもを残して、本国に帰国するか、次の勤務地の朝鮮へ移っていきました。

 

当時の米国の移民法は戦地で産んだ赤ちゃんは連れて帰れませんでした。だから出産した赤ちゃんを街に遺棄されることも相次ぎました。それに残された赤ちゃんにも“敵兵の子”として社会から冷たい視線がつきまといました。

 

今回発見された手紙にも、母親たちが差別から子どもを守ろうとする思いが綴られていました。

「『アメリカ』『日本』など子ども同士の戦争さながらの姿を目のあたりに見て、本当に耐えられないのです。友達に
“あいの子”とさげすまされ、解せない顔で私に、あの子がこう言ったと泣いて訴えます。私は可愛くて手離すことができず、かといって手元に置いてはこれからも友達にからかわれます」

 差別される子どもを抱えて苦しんでいるようすが伝わってきます。

 

◇「誰も遊んでくれなかった」

エリザベス・サンダース・ホームで育った1期生の黒田俊隆さん(75歳)は、米兵の父親との間に生まれました。幼い頃、母親に連れられてホームに来たことを覚えているそうです。

「ホームに連れてこられ、これからホームの人と話をするからここにいてと言われたんです。でも俺はうかつにもベッドで寝てしまった。目が覚めたときお袋はもういなかった。お袋に捨てられたと思った。それが一番最初の記憶で、当時はそういう風に解釈していたよ」

 

6歳になり小学校進学を控えたころ、黒田さんたちのような米兵などとの間に生まれた子どもを、地域の小学校が受け入れるべきかどうかという議論が巻き起こりました。

昭和28年(1953)、厚生省が初めて行った実態調査で、「誰も遊んでくれない」という回答が一定数あり、厚生省は「一般児童と差別されないよう、すべての児童と平等に育てるべきだ」といった通知を出しました。それを受けて文部省は一般の小学校で受け入れる方針を定めたのです。

 

しかし、地域の記録に「日本人の親の感情的抵抗が相当ある」と記されるなど、実際には受け入れを好ましく思わない声も上がったようです。黒田さんはその間の事情を語ります。

「あとから聞いた話だけど、俺たちが小学校に入学することを反対したらしい。俺たちが“混血児”だからだ。俺たちは誰も遊んでくれなかった。俺たちは町からも虐待されたんだ。木で叩かれたり、石を投げられたりしたんだよ」

 

澤田美喜さんはそうした子どもたちを守ろうと、ホームの中に聖ステパノ学園小学校をつくり、外の社会と切り離して育てました。だから黒田さんは、ホームは“楽園”のようだったと語ります。

「俺たちは、血は一切つながっていないけど、家族なんだ。あそこで育って、同じ教育を受けた兄弟で、その上にママちゃま(澤田美喜)がいた。

ママちゃまは俺たちにとってはお袋なんだ。自分が“混血”だとか、日本人だとか全然考えなかった。ホームの中は楽しかった」

今もホームの卒園生が大磯の駅前で喫茶店を開いています。いつまでもそばにいたいというのです。だから今でも同窓会が開かれています。

エリザベス・サンダース・ホームの入り口のトンネル

澤田美喜さんに届いた孤児たちの母親の手紙

写真=エリザベス・サンダース・ホームの入り口にある黒いトンネル

母親たちが寄せた手紙


澤田美喜と子どもたち

沈黙の響き (その116)

「沈黙の響き(116)」

エリザベス・サンダース・ホームは大磯の発展の阻害要因か?

神渡良平

 

◇「こんな女に誰がした……」 捨て鉢な恨み節が流れる街

 昭和20年(1945830日、米軍や英国連邦軍が上陸を開始したわずか2時間後、36歳の母親と17歳の娘が米兵に襲われ、強姦されました。しかし、当の米兵は治外法権を適用され、何の咎めも受けることなく釈放されました。

敗戦の事実を否応なしに突きつけられた惨めな事件でした。

 

 空襲によって焼け跡になった日本は食べていけませんでした。

中央西口を出て薄暗いガード下に入ると、パーマネントをかけ、厚化粧をした夜の女たちが、米兵を求めてたむろしていました。近くには必ずといっていいほど、足のない傷痍軍人たちが松葉杖をつき、あるいは地べたに座って物悲しいアコーディオンの曲を奏でていました。それが敗戦の哀しみをいっそう増幅しました。

 

どこからか聴こえてくるラジオからは、「ラク町お時」こと西田時子の捨て鉢な恨み節、

「こんな女に誰がした……」

 が流れてきます。家族も家もすべて失い、焼け跡で夜の女として生きるしかない身を嘆いて歌うそのブルースは、パンパンと呼ばれさげすまれた女たちの呻き声でした。それは有楽町のガード下だけではなく、新橋でも品川でも横浜でもどこでも見られる光景でした。

 

 米海軍が根拠地とした横須賀には「どぶ板横丁」と呼ばれた赤線地帯がありました。マスコミはGHQの手前、表立っては書けませんが、ひそかに「どぶ板横丁」を「性の防波堤」と呼んでいました。乱脈な性行為の末に生まれる混血児に手を焼き、横須賀市が街娼婦を一斉検挙したところ、2500人が検挙されました。

 

◇美喜さんへの口汚い中傷

 そんな世相のなかで、澤田美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームを運営したので、大磯の町では拒否反応が起きました。口さがない人たちが美喜さんの陰口を叩きました。

「財閥の令嬢がよりによって混血の孤児を集めているんだって。敵国兵が生み落とした子じゃないか。ほっておけばいいんだよ」

「なぁにあれは岩崎家の別荘を使いたいために、隠れ蓑として混血孤児を利用しているだけだよ」

 そんな声が聞こえてきます。世の中には自分で責任を取ろうとはしない評論家がごまんといました。

 

「占領軍に別荘を接収されるのを恐れて、孤児院という看板を掲げているだけだよ。口八丁に手八丁、嘘で固めた企画だね」

「エリザベス・サンダース・ホームなんて、三菱財閥の令嬢の一時の道楽ですよ。一年もしたら放り出すでしょ」

 噂話をする人は鼻でせせら笑っています。

「それにしても、あの混血児たちは生きていても苦しむだけなんだから、いっそ小さいときに死なせたほうが慈悲というものだね」

「自分でさえ食べるのに必死なのに、よくも戦争孤児を引き受けて育てるなんていう余裕があるな。金持ちの道楽、ここに極まれりと言うべきか」

 などと、言いたい放題でした。

 

実はGHQにとっては米兵と街娼(がいしょう)との間に生まれる混血児は頭痛の種でした。性道徳の紊乱(びんらん)そのもので、米軍がこの不道徳をもたらしたと言えます。したがって大磯のエリザベス・サンダース・ホームで百人を超す混血児たちが養育されているのは由々しい問題でした。GHQ内部ではエリザベス・サンダース・ホームを不許可にして、混血児たちはできるだけ目立たないように全国に散らばして育てるべきだという意見もありました。

 

 GHQの意向は当然神奈川県にも大磯町にも伝わっており、行政は協力できないと、陰に陽に執拗な嫌がらせをしました。そういう空気が伝わって大磯町にも、エリザベス・サンダース・ホームが活動しているのは容認できないと険しい雰囲気がありました。

澤田さんが町を歩いていると、うしろから、

「やーい、パンパンハウスのマダム! 日本人の面汚しめ。何でそこまでアメリカのご機嫌を取るのか。くそったれー、恥を知れ」

 と、罵(ののし)られました。

 

暗い夜道ではどこからともなく、石が飛んできました。列車内では美喜さんが乗っていると気づくと、これ見よがしに大声で叫ぶ人もありました。

「大磯町の発展を邪魔しているのは、エリザベス・サンダース・ホームだ。あの岩崎山はダイナマイトで吹き飛ばして、駅前から白砂の砂浜にまっすぐ出られるように道を付け、大磯ビーチとして宣伝し、しっかり都市計画すべきだ」

 

 美喜さんが黒い子を抱いて列車に乗っても、席を譲る人はありません。それどころか、まわりにたかって通路をふせぎ、子どもたちの耳に入れたくない「クロンボ」だの「合いの子」だのさげすみの言葉を投げつけました。

 

◇エリザベス・サンダース・ホームは児童を虐待している?

 エリザベス・サンダース・ホームの子どもたちが41人、百日ぜきに感染して寝込んだことがありました。そのうち22人が肺炎を引き起こし、澤田さんや保母たちは寝ずに看病しました。しかし、その看病もむなしく、とうとう7人が亡くなりました。7つの小さな棺桶が運び出され、葬儀場へと向かいました。

 

 それを目撃した市民の中に、夜陰に紛れてホームの門の壁に、

「寿(ことぶき)産院」

 と張り出して、嫌がらせをする人がありました。寿産院事件とは東京・牛込にある産院の経営者夫妻が預かった120人余りの乳児を殺し、養育費や配給品を着服していたことが発覚して問題になった事件で、それに引っかけてエリザベス・サンダース・ホームを非難したのです。

 

 澤田さんはその7名の犠牲者の親に連絡を取り、遺骨を引き取ってくださいとお願いしました。でも引き取りに来た母親は一人もありませんでした。再度連絡して、

「そちらの墓地に埋葬していただけませんか」

 と、お願いしても、

「親もわからない混血児の遺骨をうちの墓に納めるなど、先祖は絶対に認めません」

 と、断られました。娘がこっそり私生児を生んだ不始末はまったく棚に上げて、素知らぬ顔をされました。やむなくエリザベス・サンダース・ホームの納骨堂に収めましたが、美喜さんはこのときほど亡くなった子どもたちを愛おしく思ったことはありませんでした。

 

◇泣く子も黙るGHQに談判した美喜さん 

 日米戦の勝利を誇る占領軍にとって、占領の落とし子として生まれた混血児に触れられることは痛いことでした。だから、サワダは混血児問題で反米をあおり、左翼や共産党に恰好な材料を提供していると非難されました。

そうしたころ、美喜さんがアメリカに滞在していたころの友人たちが寄付金を送ってくれました。美喜さんはその寄付金で清潔なベッドを購入して子どもたちを寝かせました。

 

 するとそれがGHQの幹部夫人たちの癇に障ったらしく、

「孤児たちをベッドに寝かせているんですって? それは贅沢というものよ。孤児たちは日本人らしく、床にごろ寝をさせたらいいわ」

 と、非難されました。

 それが回りまわって美喜さんの耳に入りました。途端に美喜さんはカチンと来ました。

娘時代から負けん気の強い澤田さんは、当時全盛を誇っていた名横綱にならって「女梅ケ谷」とか、三菱財閥の創立者岩崎彌太郎の孫娘であることから「女彌太郎」とも呼ばれていました。その負けん気でGHQ経済科学局長のマーカット少将や、渉外局のウェルチ大佐に抗議に行きました。

 

「泣く子も黙る占領軍」と恐れられた時代です。日本人は首相以下、占領軍の意向にひれ伏して口をつぐんでいた時代に、これほど真っ正面から抗議する人はそうそういませんでした。美喜さんを「三菱財閥の令嬢のわがまま娘」と非難する人もありますが、この体を張った抗議は誰も非難できません。正真正銘本気だったからこそ、GHQ内部でも日本聖公会の幹部の間でも、美喜さんを支持する人が多かったのです。

 

 私はこの稿で「進駐軍」という呼称を使わず、あえて「占領軍」と書きました。それには理由があります。GHQは「占領軍」という名称は強すぎるので「進駐軍」と呼ぶよう指令しました。「占領軍」という強い語感を消して「進駐軍」としたのです。そこで私はあえて「占領軍」という呼称に戻して、当時の雰囲気を再現するように努めました。

 

◇地獄に仏――善意の人々が寄せた密かな支援

 美喜さんが乳児に飲ませるミルクがなくて困り果てていたとき、夜遅く米軍のジープで大きなミルク缶4ダースが届けられました。旧知のグルー元駐日アメリカ大使がペニシリンを送ってくれたこともありました。

 

 その夜美喜さんはホーム内の聖ステパノ礼拝堂で泣きながら、神に感謝しました。

「主イエスよ、あなたは私たちが何を必要としているかご存知でした。お腹を空かして泣いている乳飲み子に替わって、心から感謝いたします」

 “大いなるもの”に捧げる絶大な信仰があるからこそ、保母たちはみんなついて行ったのです。

澤田美喜と子どもたち

写真=澤田美喜さんと混血孤児たち


澤田美喜2

沈黙の響き (その115)

「沈黙の響き(115)」

GHQと闘って孤児院を開いた澤田美喜さん

神渡良平

 

◇大磯にパンパンの子どもを収容する施設をつくらせるな!

 澤田美喜さんはようやくGHQや日本政府の了承を取り付けて、エリザベス・サンダース・ホームを開設したものの、思わぬ障害となったのは地元の反応でした。

 

「岩崎家の別荘にパンパンの子どもを収容する施設をつくるとは何事か! 奴らは敵兵の子ではないか。高級別荘地としての大磯のイメージがけがれる!」

 と、反対運動が起きました。混血孤児など国辱以外の何物でもないというのです。混血孤児に罪はなく、誰かが面倒見なければならないというのに、です。前門の虎、後門の狼とはこのことです。次から次に新たな問題が出てきました。

 

その間も、生きていくのに疲れ果てて、子どもと心中する一歩手前まで行っている若い母親が、澤田さんを訪ねてきて、涙ながらに子どもを託していきます。澤田さんはそんな母親の頼みを一人たりとも拒否しませんでした。いや、拒否できなかったのです。

 

 それに列車の中や駅の待合室、公園、道ばたに紙くずのように捨てられた混血児が、ホームに連れてこられます。

髪が縮れている……、

色が黒い……、

青い眼の混血児だ……

 

そんな理由で捨てられた孤児が大磯の町だけでも20人を超えました。澤田さんは独り臍(ほぞ)を噛み、受けて立ちました。

(これは敗戦の悲劇が生み出したものだ。避けては通れない!)

 美喜さんは意地でもこの問題から逃げるものかと腹をくくりました。やはり、土佐の異骨相(いごっそう)の血が流れています。受けて立つと決めたからにはやり抜くだけです。

 

◇昼はオニババ、夜はマリア

 それからますます、目に見えないいろいろな圧力が澤田さんの頭上に火の粉のように降り注ぎました。政府からもGHQからも圧力が、ホームを投げ出して混血児たちは全国に散らしてしまえと、手を変え品を変えて襲いかかってきます。しかし、澤田さんの闘志はますます燃え上がるばかりです。

 

(何おっ、敵はそう来るか!)

 と意地が出て、最後まで闘う決心をしました。どんなに波風が厳しかろうと、子どもたちを守り通すことに命をかけようと心に誓いました。

 

 一日の闘いが終わって子どもたちが寝静まると、澤田さんはくず折れるようにして、南海に散った3男晃(あきら)君の戦死を悼んで建てた聖ステパノ礼拝堂に行き、壁の十字架の下に膝まずいて涙のうちに祈り明かしました。

そこには美喜さんが長年かかって集めた、日本最古と伝えられる踏み絵の版木だとか、細川ガラシャ夫人の遺品である白磁のマリア観音など、キリシタンの遺物が多数収められています。それらの歴史的遺物に囲まれて祈りのときを過ごしました。

 

 美喜さんにとって十字架のイエスだけが心の支えでした。十字架で処刑された長崎の26人の隠れキリシタンたちたちが、讃美歌を歌いながら昇天していった姿を涙ながらに思い浮かべ、

(私も負けません!)

 と、歯を食いしばりました。澤田さんにとってホームを運営することは、宗教上の闘いでもあったのです。

 

 長年、美喜さんの秘書と運転手を務め、美喜さんの死後、澤田美喜記念館の館長となり、朝夕はいつも、記念館の入り口近くにある鐘をついていた鯛茂(たいしげる)さんは澤田さんを、

「ママちゃまは、昼間はオニババ、夜はマリアでした」

と回顧しています。歯に衣を着せない鯛さんらしい率直な表現ですが、ある意味では美喜さんの人柄を的確に表現しています。敵対する人が多い施設を運営していくには「オニババ」にならなければやっていけなかったでしょうし、それだけに夜、礼拝堂にこもって一人祈りのときを過ごし、聖母マリアにいやされていたのです。

                                                       

◇手を差し伸べてくれた支援者たち

 GHQの中には、夫のニューヨーク派遣に伴って行ったとき以来の友人もあり、同じ聖公会やメソジスト教会の信者もあり、その人たちが何かと手助けしてくれました。彼らが日本ではなかなか手に入らないミルクや医薬品、古着をこっそり送り届けてくれました。

 

 また若い軍医が夜遅く、孤児たちを診察してくれ、

「私はクリスチャンとしてお手伝いをします」

と、進駐軍のあり余る薬品を使って治療してくれました。回虫を持っていない子はないので虫下しはよく効いたし、疥癬(かいせん)などのしつこい皮膚病に米国製の薬品は効果があったので大変助かりました。ところがその軍医は3か月後、上官に呼びつけられ、転属させられてしまいました。

 

 あるとき、シカゴの裕福な未亡人から、4500ドル寄付したいと申し出がありました。ホームの経済事情からすると、夢のような大金で、干天の慈雨のような申し出です。みんなで大喜びしていると、シカゴから短い電報が届きした。

「日本のある筋から忠告されたので、送金を見合わせます」

 というのです。またか! 悔し涙に暮れざるを得ませんでした。

 また米国からの援助物資であるララ物資を美喜さんが転売しているという噂も流され、陰に陽にいやがらせを受けました。

 

 決定的だったのは、聖公会との関係が打ち切られたことでした。聖公会はイギリス系のプロテスタントです。ニューヨークのアメリカ聖公会本部海外伝道部長のベントレー主教は日本に来た際、大磯のサンダース・ホームを訪ねており、関係はすこぶる良好でした。

ところがそのベントレー主教からアメリカ聖公会からのいっさいの援助を打ち切るという通告を受けたのです。全米48州の各教区の主教たちにも同じ通告が出され、日本のエリザベス・サンダース・ホームには援助しないようにと通達されました。

当然日本聖公会にもエリザベス・サンダース・ホームを支援しないようにという通達が来ましたが、日本聖公会とは深い信頼の絆で結ばれていたので、関係断絶には至りませんでした。

 

◇渡米のためのビザが下りない!

 澤田さんが初めて米国講演のため、渡米を計画した昭和27年(1952)、日本はまだ占領下にあったため、なかなかビザが下りませんでした。米軍が混血児問題に触れてほしくないので、澤田さんの渡米に難色を示したようです。渡米の予定日が迫ってきたので、澤田さんはしびれを切らして、米国大使館に催促に行きました。

 

「国連大使を務めている澤田廉三の妻がビザを出していただけないということはどういうことでしょうか。私にビザを出すのはふさわしくないというのでしたら、夫も国連で日本代表の席に着く資格がないということでしょうから、夫に辞任して帰国するようにと電報を打ちましょう。私は国際世論に訴えてでも闘います」

 強硬な訴えを受けて米国大使館が折れ、とうとうビザが発給されました。以来、澤田さんは毎年数か月、アメリカに講演と寄付金集めに行っています。

 

 澤田さんのエリザベス・サンダース・ホーム運営はGHQとの闘いによって進められたのです。岩崎彌太郎の血を引く不撓不屈の精神がなければ、陰に陽に掛かってくる圧力は跳ね返せなかったでしょう。また国家を代表する外交官の夫人だったからこそ、米国の理不尽な対応に対しても闘うことができました。やはり澤田美喜でなければ、こうした難関は切り拓けなかったのです。

澤田美喜2

写真=不屈の闘志を燃やした澤田美喜さん


エリザベス・サンダース・ホーム正門

沈黙の響き (その114)

「沈黙の響き(その114)」

エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

神渡良平

 

 

◇不思議な人望を持つラッシュ教授

不思議なことは続くもので、澤田美喜さんがニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会のチェーズ司祭と同じように、兄妹のように親しくしていたポール・ラッシュ教授も米軍少佐として来日したので、100万人の援軍を得たような気になりました。

 

ラッシュさんは大正14年(1925)、関東大震災ですっかり破壊された東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館を再建するために来日しました。美喜さんはそのころラッシュさんと知り合って親交を結ぶようになりました。ラッシュさんはその仕事を終えると立教大学の教育宣教師となり、同時に経済学教授として教壇に立ちました。

 

人づきあいがよくて仲間作りにたけたラッシュ教授は各大学で教えるアメリカ人やイギリス人の教授たちと「日本外国人教師連盟」をつくりました。また彼らに働きかけて、各大学にESS(イングリッシュ・スピーキング・ソサエティ)をつくって英語劇を行うなど、活動範囲は全国に広がっていきました。

 

ラッシュ教授のオーガナイザ―としての手腕はなかなかなもので、聖路加(せいルカ)病院のルドルフ・トイスラー院長の手助けもしました。トイスラー博士は明治33年(1900)、米国聖公会の医療ミッションとして日本に派遣され、築地の粗末な木造病院で医療活動をしていました。しかし一日も早く、現代医療設備が完備した米国式の病院を建てたいと念願していました。

そのために必要な資金はざっと計算しても265万ドル(現在の貨幣価値で130億円超)です。博士はそれをアメリカの市民や民間団体から集めようと、ラッシュ教授に声をかけました。

130億円という途方もない金額が集められるものかどうか、皆目わかりません。頼みの綱は米国聖公会です。このイギリス系のキリスト教団体は初代大統領ジョージ・ワシントンを初め、アメリカの上流階級に信徒が多いことが特徴です。初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスも、進駐軍の総帥ダグラス・マッカーサー元帥、あるいは超富裕層のモルガン家も熱心な信徒でした。

 

昭和3年(1928)、トイスラー博士とラッシュ教授はエンパイアステートビルの36階にオフィスを構え、米国の政財界に寄付を呼びかけました。トイスラー博士の人脈は広く、3年間で予定額をほぼ達成し、これを資金にして、昭和8年(1933)、新しい聖路加国際病院が新たに開院しました。

 

日本に帰ってきたラッシュ教授は八ヶ岳の清里高原に、青少年を訓練するキャンプ場をつくる構想を立ち上げ、キープ会を設立して募金活動を始めました。そして清里のグラウンドでアメリカン・フットボールを教えました。そのため、後年ここがアメリカン・フットボールの殿堂と言われるようになりました。

 

◇エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

ところで日本政府から大磯の別荘を払い下げるという通知をもらった澤田さんは、400万円の金策に走りました。もちろん財産を処分し、欧米で買い求めた油絵や貴金属、外套などを売り払って当面の200万円を工面しました。

 

そのころ、三井家の子息の養育係(ガバネス)として働いていたイギリスの女性エリザベス・サンダースさんが76歳で他界しました。エリザベス・サンダースさんは大正の初めに一度英国に帰国しましたが、再度請われて来日し、再び三井家に仕えました。以来33年間、一度も祖国に帰ることなく働きました。

サンダースさんは日本での40年間の勤労で得た全財産170万ドル(約6億1200万円)を日本聖公会の社会福祉事業に遺贈したのです。

 

エリザベス・サンダースさんが遺贈した寄付金の活用を任されたのは、同じ英国人のルイス・ブッシュ早稲田大学教授でした。そのブッシュ教授の親友だったポール・ラッシュ教授が米軍の将校として再来日していました。ラッシュ教授は親友の澤田さんから、大磯の別荘を買い取って混血孤児を養育したいという構想を持っていると聞いていたので、ブッシュ教授に澤田さんがやろうとしている社会福祉事業に役立てたらどうかと進言したのです。

 

◇海外の友人たちに手紙を送って孤児院開設の寄付を募る

美喜さんは海外の友人たちに日夜ぶっ通しで5千通もの手紙を書き、戦争孤児たちの養育院を開きたいので、財政的な援助をしてくれるよう頼みました。美喜さんは不眠不休で手紙を書き続けたので、目は因幡(いなば)の白うさぎのように真っ赤な目になったといいます。

 

美喜さんはニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会の日本部の委員長を務めるなど、交友範囲は広かった。それでも5千名もの宛先を知っていたとは思えません。おそらくラッシュ教授が聖路加病院の寄付に応じた団体や個人の宛先を教えたのではないかと思われます。

 

ラッシュ教授のアドバイスはとてもきめ細かく、

「募金を依頼するにはただ印刷物を送るのではなく、1枚1枚タイプして、心を込めて丁寧にサインを入れること。それに記念切手を集めておいて使うこと」

などと伝授したようです。

 

美喜さんの訴えに応えて、海外からの義援金は1万5千ドル(当時の金で約540万円)に達し、第一の関門を突破できました。しかし、海外からの送金を管理していた人が着服して使い込んでいたことが発覚し、善意が踏みにじられたこともありました。世情が混乱していたこともあって、船出は容易ではありませんでした。

美喜さんは買い取り資金の残りの200万円を、カリフォルニアで成功した日系二世の実業家から1か月1割という高利で、しかも米ドルで支払うという法外な金利で借り受けました。

 

日本聖公会はブッシュ教授の進言を入れて、サンダースさんの献金をそっくり澤田さんに贈り、孤児院開設の一助としました。澤田さんはサンダースさんの遺志に感激し、彼女の名前を冠して、施設をエリザベス・サンダース・ホームと命名しました。

 

ホームの発起人には聖公会関係者のほかに、ダグラス・オーバートン横浜副領事などの名前も入っています。ポール・ラッシュ教授をはじめ、彼の人脈がずらりと並んでいます。そういう人々を動かす力があるというのも、美喜さんならではです。彼女でなければ、GHQや日本政府を動かして、ホームを設立することはできなかったでしょう。

設立は昭和23年(194821日、澤田さんが46歳のときでした。

エリザベス・サンダース・ホーム正門 

写真=大磯駅のすぐそばにあるエリザベス・サンダース・ホームの入り口