2020.10.10 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その15)
「教育はいのちといのちの呼応です!」④
超凡破格の教育者・徳永康起先生
神渡良平
≪病床に残された日記≫
徳永先生は山の分教場の次に、免田村(現あさぎり町)の免田小学校に3年間勤めました。この教え子たちは、卒業後10年間たとい血の涙を流しても頑張ろうと約束し、「免田十年会」が結成されました。
その中に田中保という生徒がいました。田中君は母子家庭で、卒業後、家の働き手として生活を支えるようになった矢先、病のために亡くなってしまいました。田中君は死の二日前、昏睡状態に陥りました。徳永先生が駆けつけると、突然目を開けて先生を凝視し、半身を起こして、「先生、せんせーい!」と言って抱きつきました。そして夢や幻でないことを確認するように、先生の腕や肩をいとおしそうに撫でさすりました。でも、田中君は看病の甲斐なく、静かに息を引き取りました。
彼の病床から「徳永先生手跡」と書いたノートが見つかりました。これは彼の日記の後に、徳永先生が赤ペンでコメントを書いていたものを切り抜き、日時やどんな時にという解説が付け加えてありました。
徳永先生は生徒との一対一の呼応は日記以外にないと思い、生徒が朝提出した日記の末尾に、赤ペンで丹念に感想を書いていたのです。それを田中君は大事にして、病床の枕元に置いていたのでした。このことから、徳永先生は日記の末尾に付けるコメントも、あだやおろそかに書いてはならないと思い、いっそう丹念に書くようになりました。
「あの声、あの目の輝き、あの握力は忘れることができません」
と徳永先生は涙を隠しません。田中君はかけがえのない絆とはどういうものか、身をもって教えてくれたのでした。
≪生徒たちの日記に書き添えられた先生の感想≫
田中君も書いていたように、徳永先生は生徒一人ひとりの日記に赤いインクで丹念に感想を書きました。徳永先生は日記ほど、生徒一人ひとりのいのちと呼応し合うものはないと思っていたからです。生徒たちはその感想を読むのが楽しみで、心を込めて書きました。
通信簿は単に5段階の評価付けをするだけではなく、観察指導内容を詳細に示すためにページを張り足して長所をほめ、努力すべき方向性を示されました。だから生徒たちは通信簿のコメント欄を読むのが楽しみでした。例えば太田郷小学校の横田忠道君の通信簿にはこういう観察が書き添えてありました。
「今までの日記に、先生が赤いインクで書いたものを読んでごらん。先生が君の進み方をどんなに楽しみにしているか、よくわかると思う。体がとても強くなったね。これで一安心だ。どもりが近ごろ少しも聞かれなくなったよ。心が落ち着いてきた証拠だね。君の伸びを楽しんでいる」
こんなコメントを読んだら、誰でも自分は大切にされていると思うでしょう。「一人ひとりに対応する」――これが徳永先生の姿勢でした。
≪石牟礼道子さんとの出会い≫
昭和20年(1945)、佐敷小学校に赴任した徳永先生は生徒たちを教えるかたわら、村内の実照寺に開設されていた代用教員錬成所でも授業しました。そこで石牟礼道子さん(旧姓吉田)に会いました。
悩み多き女学生だった石牟礼さんは戦争のこと、国家のこと、人生のことを問いかけ、その悩みに徳永先生は真摯に向き合ってくれ、2人の間を手紙が何度も往復しました。石牟礼さんはまだ16歳でしたが、とても非凡なものを感じました。石牟礼さんが戦争孤児を引き取って育てた話を聞いて、徳永先生はそれを文章にまとめるよう薦めました。そして書き上がったのが石牟礼さんの初めての習作『タデ子の記』です。
昭和44年(1969)1月、石牟礼さんは『苦海浄土――わが水俣病』(講談社)を、方言を駆使して書き、鎮魂の文学として絶賛され、第一回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられましたが辞退しました。副賞に2千ドルの賞金と飛行機による世界一周の恩典が与えられているのに、水俣病患者の救済の目途が立たない限り、賞を受けるわけにはいかないというのです。いかにも肥後もっこすらしい理由です。
その翌年、徳永先生は『タデ子の記』をガリ版で刷って石牟礼さんに贈呈しました。石牟礼さんはこの習作が突然、25年ぶりに出現したことに驚き、早速先生に電話しました。
「あれは私がきちんとした文章で書いた最初の物語です。原稿を保存していてくださっていてありがとうございます」
そして『不知火おとめ』(藤原書店)に徳永先生へ宛てた若いころの手紙11通を載せ、師の愛に感謝しました。また「幻の処女作」は『石牟礼道子全集』(藤原書店)にも収録されました。また昭和43年(1973)にはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞しました。(続く)