月別アーカイブ: 2020年9月

沈黙の響き (その13)

2020.9.26 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その13)

「教育はいのちといのちの呼応です!」②

  超凡破格の教育者・徳永康(やす)起(き)先生

神渡良平

 不良少年を引き取って自立させた柴藤さん

 柴藤清次さんは結婚して家庭を持ちました。警察も持て余していた4人の不良少年を自宅に引き取り、それぞれに自動車免許を取らせ、就職するまで8年間世話しました。また昭和39年(1964)には、捨てられていた女の子を養女として迎えました。だから奥さんと、小学校3年になる息子と小学校1年の養女の4人で暮らしました(昭和40年時点)。

 なぜ柴藤さんがそこまで他人の面倒を見るのかというと、理由があります。柴藤さんはそれをこう説明します。

「私が“炭焼きの子!”と馬鹿にされ、すっかりひねくれていたとき、担任の徳永先生が私を宿直室に連れて帰り、抱いて寝てくれました。それで私のひがみ根性が消えてなくなりました。今その恩返しをしているんです」

 そんな柴藤さんの善行を伊万里市の青少年問題協議会が知るところとなり、昭和39年(1964)12月22日、同協議会から表彰されました。それがきっかけで、朝日新聞熊本版の「読者のひろば」に、恩師を探している柴藤さんの投書が載りました。

「昭和7、8年ごろ、熊本県球磨郡の下槻木分校でお世話になった徳永康起先生を探しています。一生忘れることのできない先生です」

 32年ぶりに宝の子と再会!

 さすがに新聞の威力はすごく、徳永先生は柴藤さんが探していることを知り、すぐさま手紙を出しました。徳永先生はその後、八代市に移り住んで、竜峰小学校の教頭をしていたのです。柴藤さんは正月3日、クルマを走らせて徳永先生を訪ね、32年ぶりの対面を果たしました。そして伊万里市青少年問題協議会から贈られた記念の花瓶を贈呈し、

「私の精神を叩き直してくださったお礼です」

 と感謝しました。教え子から記念の花瓶を送られて、徳永先生は恐縮しました。

「この花瓶はもったいなくてもらえません。でも、柴藤君が大臣になった以上に嬉しい。教師としてこれ以上の喜びはありません」

 教え子から32年経ってもなお慕われる教師――。そこには先生と教え子の間に、いのちといのちの呼応があったからでした。

 お昼の弁当を抜いて生徒と過ごす

 徳永先生は貧しくて恵まれない家庭の生徒には、特に心を砕かれました。たとえば進級するとき、生徒は講堂に並んで新学年の教科書を購入します。しかし、生活保護の家庭の子は無償配布になっていて、担任の先生が教室で渡します。ところが無償で受領する生徒は引け目を感じます。自分が生活保護家庭の子だとみんなにわかってしまうからです。

 徳永先生はそのことに気を遣い、生徒たちが教室にいない間に、こっそりと机の中に入れて渡されました。

 昼休みの弁当の時間はみんなが待ちに待った時間です。ある意味ではもっとも楽しい時間です。ところが生徒の中には、そっと教室を抜け出し、校庭で遊んでいます。家が貧しくて弁当を持ってくることができない生徒たちです。

 それに気づいた徳永先生は心を痛め、自分も弁当を止めて、校庭で子どもたちと一緒の時間を過ごされました。だから弁当を持ってこれない生徒たちは、先生は自分たちのことをわかってくださっているとますます慕いました。

 徳永先生は柴藤さんについてこう語っておられます。

「もしも私が柴藤君と同じ境遇に置かれたとしたら、果たしてこのように生き得たであろうかと思うとき、完全に負けです。そこに思いをいたすとき、おのずと『教え子、みな吾が師なり』と合掌せざるを得ないのです。

私のたった一つの誇りは、私よりはるかに高く、かつ深く生きている教え子の名前を、即座にすらすらと、何人でも息もつかずに言えることです。そしてそれ以外には何一つ取り柄のない人間です。ありがたきかな。無一物にして、しかも無尽蔵!」

 徳永先生はいつもニコニコ笑っていて、どこまでも謙虚な先生でした。(続く)


沈黙の響き (その12)

2020.9.19 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その12

「教育はいのちといのちの呼応です!」①

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 平成8年(1996)、教職にある人々が集う実践人の家の寺田一清(いっせい)常務理事(当時)が主宰者の森(のぶ)(ぞう)先生の大著『()(じん)叢書(そうしょ)』(全五巻)の編集に取り組み、一年以上も格闘していたとき、人々から“国民教育の父”と尊敬されている森(のぶ)(ぞう)先生が寺田さんに尋ねました。

「わが実践人の同志の中で、最も宗教的な方はどなただと思いますか?」

 寺田常務は迷うことなく即座に答えました。

「熊本の徳永康起先生でしょう。あの先生ほど、教え子たちに慕われている先生はありません。徳永先生が発行されている個人誌『天意』をひもとくとき、教え子たちとの魂の響き合いに感心し、地下水的真人の顕彰に終始しておられ、その一貫し徹底した奉謝行には、深く敬服し、低頭せざるを得ません。私は森門下生の三傑の一人だと高く評価しています」

「やはりそう思いますか……」

 2人の意見は期せずして一致しました。

 とはいえ、徳永先生は残念ながら世の中にさほど知られている方ではありません。では徳永先生は何ゆえにお二方からそれほどに評価されているのか。徳永先生の足跡をたどって、明らかにしてみたいと思います。 

 

“炭焼きの子”と馬鹿にされて

昭和8年(1933)の新学期のある日のことでした。山一つ向こうは宮崎県という熊本県の山深い球磨(くま)久米(くめ)村(現多良木(たらぎ)町)の(しも)(つき)()分校の小さな運動場で、ドッジボールをやっていた5年生の児童たちがいさかいから取っ組み合いの喧嘩を始め、一人が相手に馬乗りになって殴ろうとしていました。

 師範学校を卒業したばかりの若い徳永康起先生はあわてて止めに入り、少年の手を握って引き離しました。少年はいつもみんなから「炭焼きの子!」とけなされ、馬鹿にされている(しば)(ふじ)(せい)()君でした。

柴藤君は小学校4年のときから、でき上った木炭を馬2頭に背負わせ、山を越えて宮崎県の米良(めら)(しょう)まで急坂を登り降りして運ぶ重労働をしており、ロクに学校に行くことができませんでした。当然成績が悪いのでみんなに馬鹿にされ、あまり風呂にも入っていないので臭く、靴や草履(ぞうり)もはかずはだしで、身なりもボロボロで乞食の子のようでした。だからみんなから仲間外れにされ、すっかりひねくれていました。それが爆発して取っ組み合いの喧嘩になったのでした。

 

先生が君を抱いて寝よう!

 事情を知った徳永先生は泣きじゃくる柴藤君をなだめて言いました。

「おい、清次君。今夜、宿直室に来い。親代わりに、俺が抱いて寝よう」

 その言葉に柴藤少年はびっくりしました。というのはそれまでの担任の先生はできの悪い柴藤君を鼻から無視していたので、炭焼きの子は先生からも相手にされないんだとひがんでいたのです。徳永先生から目を掛けられるようになると、柴藤君はすっかり明るくなり、成績も上がって、みんなに溶け込むようになりました。

とはいえ、貧しい家の経済状態はよくなったわけではありません。とうとう6年生を満足に終わることができずに卒業していきました。

この話の主人公の徳永先生は伸長170センチぐらいで、声は太く中低音、固太りで70キロぐらいありました。鼻が高く、彫りの深い顔にメガネをかけ、古武士然としておられました。でもいつもニコニコほほえんでおられるので、いかつい外貌もそれで救われていました。森先生が主宰されている教育者の集いである実践人の家の夏季講習会では、第二部の会を仕切っておられ、話が上手いので評判が良かったようです。

熊本の男はよく「肥後もっこす」といわれます。純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子(てこ)でも動かないほど頑固で、曲がったことが大嫌いな性質を指してそう言います。「津軽じょっぱり」「土佐いごっそう」とともに日本三大頑固者といわれていますが、徳永先生は典型的な肥後もっこすでした。おそらく合志義塾で学んでいるとき、慕っていた工藤塾長から「一度決めたら梃子(てこ)でも動かない」性格にいっそう磨きをかけられたのでしょう。

 

 農家の下男、招集、そしてシベリア抑留……

 柴藤君は小学校を卒業すると、農家の下男として働きました。続いて徴用工となり、さらに軍隊に招集され、満州に派遣されました。しかし終戦となって、違法に侵攻してきたソ連軍に抑留され、シベリアに送られて重労働に伏しました。

シベリアでは戦友の間を駆けまわって世話をし、みんなに希望と勇気を与えました。5年に及んだ抑留がようやく解かれて、昭和25年(1950)、シベリアから引き揚げました。

 柴藤さんは佐賀県の伊万里(いまり)に落ち着くとカマボコの行商を始めましたが、石炭不況のあおりを受けて商売はうまくいかず、転職を余儀なくされました。

それで軍隊時代に身に着けた自動車の運転技術を生かし、昭和36年(19611月、伊万里自動車学校の教官に採用されました。

 柴藤さんは教官としても優秀で、彼が指導する教習生の合格率は高く、長崎県から優良指導者として表彰されました。表彰された教官は2人でしたが、その1人が柴藤さんでした。(続く)

※写真=徳永康起先生


中川さんのラジオ番組の収録

沈黙の響き (その11)

2020.9.12 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その11

「言葉は人格形成の中核だと気づきました」④

  中川千都子さんが闘病生活でつかんだもの

神渡良平

 

最後の手術のときに聞こえた声

その年は手術を5回くり返し、最後に手術をしたのがその年の12月でした。

その日、いつものように朝日の見えるところで、「ありがとうございます」と唱えて祈っていると、誰も周りに誰も人がいないのに、

「肉体は自分じゃない!」

という声が聞こえてきました。思いがけない声に驚き、その言葉を反芻(はんすう)していると、涙がブワッと込み上げてきました。

(そうか! 肉体は自分じゃないんだ。わたしの“いのち”はもっと大きく、永遠のものなんだ。何時間か後に大きな手術を受けるけれど、私が損なわれることはまったくないんだ。安心してゆだねたらいいんだな)

はっとした次の瞬間、まるで広い空に抱きかかえられたような味わったことのない大きな安堵感(あんどかん)に包まれました。だから中川さんはまったく不安がゼロの状態で手術を受けることができたのです。

 

中川さんはもともと論理思考で、不思議なものは信じないタイプでした。しかしこのような体験を通じて、神仏といった人知を超えた世界があると思うようになりました。

病室の天井を眺めながら、何度も手術を繰り返しては、こうしてまた生かされているわけを考えるようになりました。それまでは傲慢にも自分の力で生きていると思っていました。でも、間違いなくこの小さな自分を支え、守り、生かす大いなる力が存在する! そして次第に、この大きな力に恩返しをしなくてはと思うようになりました。

 

そこで一人でも多くの人に、自分の体験を踏まえて、

「人生は何があってもOKです。どんなところからでも立ち上がれるんです」

と伝えたいと、心理カウンセラーとして起業しました。幸いにも企業や個人に受け入れられてひっぱりだこになり、講演や講座などに忙しくなりました。それにラジオMBC松原インターネット放送で毎週木曜日午後1時から1時間、「中川千都子の“ありがとうのじかん”」を放送するようになり、関西圏のみなさんに楽しんでもらっています。そんな経験を経て、中川さんはつくづく思いました。

 

「私たちは間違いなく“サムシング・グレート”(大いなるもの)に生かされており、“天意を生きる”ことが一人ひとりの役目だと思います。真の幸せから外れて“我”を生きると、かつての私のようにしんどくなるんです。

天意を生きることの具体的な方法は“言葉を変える”ことです。常に心の中で“ありがとうございます”と唱えることで、天とつながりやすい自分でいることができます。“ありがとうございます”はすべての調和をもたらす祈りの言葉です」

 

 体験に裏打ちされた中川さんの言葉には説得力があります。それに、生き生きと輝いている中川さんの表情が、語られるメッセージを裏打ちしています。

 私は中川さんの話を聞いていて、つくづく「人間は強いなあ!」と思いました。人間はタフで、少々のことではへこたれません。どんな状況に陥っても必ず道を見つけだし、ついに“全体調和”に至り着きます。人間はもともと全体調和の世界の主人公だからです。

 

 自分を育てるのは自分自身です

もともと私たちは全体調和の世界に生きるようになっていました。そこへガイドしてくれる道が「魔法の言葉」なのです。何があろうとも、「ありがとう」と感謝することで、私たち自身とその周囲に次第に調和の世界が現れてきます。

 

私たちが住んでいる世の中が、誰かの力によって昇華して調和の世界に変わるのではありません。あなた自身の努力でまずあなたの中に調和の世界が顕現し、それが次第に周囲に広がっていくのです。だからそういう世界が顕現するかどうかは、一重に私たち自身の努力に掛かっているのです。“自分を育てるのは自分自身である”という真理は今も昔も変わりません。

 

※写真はラジオ番組収録中の中川千都子さんとアシスタントの樋口真奈美さん

 

(中川さんについての連載は今回で終わります。次回からは「鉄筆の聖者」といわれた熊本の教育者・徳永康起先生についてです)


中川千都子さん講演

沈黙の響き (その10)

2020.9.5 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その10

「言葉は人格形成の中核だと気づきました」③
  中川千都子さんが闘病生活でつかんだもの

神渡良平

 

とうとう薬を服用することをやめた!

その後も抗ガン剤などの治療は続きました。でも抗ガン剤は正常な細胞にもダメージを与えてしまうなど、必ず副作用があります。それで思い切って、「薬を止めたいのですが」と申し出ました。すると主治医は「何を考えているんですか? 薬を使わないなんて非常に危険です」と反対されました。使用していた薬は5人に1人の割合で別の部位に癌を発症する可能性があるとされているものでした。中川さんは内心、そんな薬に頼るのではなく、「ありがとうございます」という言葉の効用に賭けてみたいという思いがありました。医師との話し合いの末、定期検診は受けるという条件で、すべての薬の治療はやめることになりました。

 

 そうこうするうちに、次の検診の日がやってきました。その間、何ら医療的な処置をしていないにもかかわらず、ガンマーカーの値が下がっていたので、医師はびっくりしました。「ありがとうございます」という言葉は単に心地よいという程度のものではなく、現実に働きかける力があるということを科学的データで歴然と見せてくれたのです。

中川さんは病院に通う必要がなくなり、通院は止めました。「魔法の言葉」はガンに効くだけではなく、日常生活も仕事もすべてにおいてどんどん好転していきました。

 

すわ、再発!

ところが平成21年(2009)、予想外の部位にがんが認められました。主治医に恐る恐る「前の乳ガンが再発したんですか?」と訊ねると、「再発ではなく、まったく別の原発性のガンが認められました」との返事に、中川さんは「ああ、よかった」と(あん)()しました。というのは、転移とか再発だったら、抗ガン剤を止め、治療を続けなかったことが失敗だったということになるからです。

そうではなかったことがせめてもの幸いでした。それに前回のガンから得たものが大きかっただけに、今度のガンからは何が学べるんだろうと思い、不安はありませんでした。

 

とはいえ、新たなガンの手術は肉体的にはダメージが大きく、寝たきりとなり、寝返りが打てない状態にもなりました。食事は自分ひとりではできず、下の世話もしてもらいました。かつての“勝ち組志向”のままなら、何とも惨めで情けない状態になりました。

しかし、このときの中川さんはただただ感謝でいっぱいだったので、どういう状態であっても心の中で「ありがとうございます」をずっと言い続けました。そのうちに体が半分だけ動かせるようになり、自分で食事を摂ることができるようになりました。寝たきりから車イスとなり、洗面所にも自力で行けるまでになりました。

 

水をジャーっと出し、洗顔料を泡立てて、自分で顔を洗えることもすごいことだなあと気づきました。考えてみたら生きている毎日というのは奇跡的なことの連続なのに、その奇跡にまったく気づいていなかったのです。やがて車イスから歩行器に移り、さらに自分の足で歩けるまでになりました。毎日発見する奇跡に驚いて感謝し、心楽しくありがたい日々でした。

 

ところがその後、またも新たな原発性のガンが違う部位に見つかり、何度も手術を余儀なくされ、入退院を繰り返しました。それでも、何があっても、「ありがとうございます」を心の中で言っていると、「これも意味あることに違いない」と、前向きに思えてくるから不思議です。

 

それでも、“ありがとう”と感謝し続けた

たび重なる手術をし、さらなる手術が控えているのにもかかわらず、いつも陽気で心配などなさそうな中川さんの様子に、同室の患者さんたちが不思議がって訊きました。

「怖くはないの? 何でそんなに楽しそうなの?」

そんな問いかけに中川さんは返事しました。

「だって生きてるってすごいことやなぁっと感じて、うれしいの。今こうして確かにここに生きていることが本当にうれしくて、ありがたい! こんなに美しくて不思議な地球というワンダーランドに生きていることが楽しくて、おもしろくて、ありがたくて、感謝しかないのよ」

 中川さんの瑞々(みずみず)しい感性は、毎日新しい不思議を発見して、ひとり感動し、興奮していました。(続く)

 

※写真:企業や地域の集まりで体験を語る中川さん