月別アーカイブ: 2020年11月

沈黙の響き (その22)

2020.11.28 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その22

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑪

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪なぜ、徳永先生は無私の教育に打ち込めたのか?≫

 ここまで書いてくると、みなさんの中に疑問が起こるのではないでしょうか。

「徳永先生はなぜそこまで徹底して、恵まれない児童生徒たちに心を配り、その目線まで降りて抱きしめることができたのだろうか」

 私も当然その疑問を抱き、電話口で徳永先生の教え子に尋ねました。すると彼は1冊の手記を紹介して、こう言いました。

「徳永先生がもっとも尊敬されていた5歳離れた長兄の(むね)()さんが、ご自分の人生をふり返って書かれた『哀歓三十年』(私家版)という手記があります。これをお読みになったら、その疑問が解けるはずです」

 

私はその手記が郵送されてくるのももどかしく、配達されるや否や、早速読み始めました。そして没頭し、その夜は明け方まで読みふけり、なるほどそういうことだったのか! と得心しました。感銘深く読み終わってフーッと深呼吸したとき、書斎の窓の外はいつの間にか明るくなっていました。少し長くなりますが、徳永先生を勇気づけた宗起さんの手記を要約して紹介します。

 

≪ペスタロッチの精神にあこがれて教職者を目指す≫

兄の(むね)()さんが青雲の志を抱いて熊本県立第一師範学校に入学したのは大正11年(1922)のことでした。彼が教師を目指したのは、准教員養成所時代、ペスタロッチの伝記を読んであこがれ、教育こそ男の仕事だと思ったからでした。

ようやく家内制手工業の段階に入った18世紀のヨーロッパは、貧民を恰好な労働力と考え、安い賃金で酷使しました。それを見たぺスタロッチは悪習を止めさせようと、

「貧民は施し物によって救済されるのではありません。彼ら自身が自らを助け自立して、人間らしい生活をしていくのに必要な能力を身につけられるよう援助してやるとき、初めて真に救われることになるのです」

そこには“神の似姿”である人間を育てようというキリスト教的使命感がありました。

「私たちは同胞のうちにある神の似姿に対して、大きな責任を負っています。偉大な人と乞食との違いはどれほどのものだと言うのですか。本質的には違いなど、ほとんどありません」

 そう言って、貧民学校を開設して教育を施しました。ぺスタロッチのそうした実践は何度も挫折し、友人たちは彼が精神病院で生涯を終えることになるのではないかと心配しました。しかし立ち直って学校教育を続け、イヴェルドン市で開設したイヴェルドン学園はだんだん評判を呼び、ペスタロッチ主義の教育を学ぼうと、多くの教師たちが詰めかけるまでになりました。ペスタロッチの教育の成果を聞きつけて、生徒もヨーロッパ中から来るようになり、イギリスやフランスなど、各地にペスタロッチ主義の学校が開設されていきました。

政府の諮問機関はペスタロッチの教育を視察して、「彼の学校では教師は子どもの同輩のよう行動し、むしろ子どもから学んでいるようにさえ見える」と報告しています。(続き)

 



多くの教育者の模範となったペスタロッチ


沈黙の響き (その21)

2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その21

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑩

  超凡破格の教育者・徳永康起先生

神渡良平

 

 

≪「幸薄きわが子に届け!」と母の祈り≫

 T子さんは3歳のとき、生みの母と離別し、父親は水商売上りの女性と再婚しました。

 徳永先生は小学校五年生のT子さんを担任して気になったので、家庭訪問しました。訪ねてみると、これではあんまりだと思わざるを得ない状況でした。T子さんは寂しかったのでしょう、先生に飛び下がり、よく甘えてきました。

 

 一学期が終わろうとするころ、鹿児島から一通の手紙が来ました。開けてみると、T子さんの母親からです。生み落としたわが子を手放さざるを得なかった母の悲しみが綴られ、T子さんがひねくれてはいないだろうかと案じていました。

 追い出される前夜は絶望のあまり目の前が真っ暗になり、わが子を抱いて鉄橋に立ったそうです。しかし、T子の泣き声でわれに返り、後ろ髪を引かれる思いでわが子を手放し、鹿児島に去ったというのです。

 

 徳永先生が大丈夫、しっかり育っていると返事を出すと、先生宛にお金や洋服や学用品が送られてきました。徳永先生は継母に知られないよう用心に用心を重ね、先生がご褒美をあげたことにして、そっとT子さんに渡していました。しかし継母にすぐにばれてしまい、要らぬおせっかいはするなと怒鳴られました。

 

 T子ちゃんが入学するとき、その晴れ姿を一目見たいと鹿児島からやってきて、校門のところに隠れて見ていましたが、後妻に見つかり、人々とT子ちゃんの面前でこずき回し、田んぼに押し倒してののしりました。そのときT子ちゃんは生みの母にしがみついて離れなかったそうですが、後妻に押し返さざるを得ませんでした。

 

 神さまは幼いT子ちゃんに、「生みのお母さんの祈りを忘れてはいけないよ」とささやかれたのでしょうか、T子ちゃんはまっすぐ育ちました。

 それに引き換え、継母はいつも酒を飲み、ふしだらな姿をさらけ出していましたが、涙に濡れた生みの母の顔を忘れることはありませんでした。

 

 中学を卒業してT子さんはあるお店に勤めましたが、継母はわずかな給料を取り上げて酒代にしました。そこに父親が急死したのです。T子さんは途方に暮れ、どうしたらいいかそっと相談に来ました。もっと金にしようと、歓楽街で強制的に働かされるに決まっています。徳永先生は躊躇することなく、鹿児島のお母さんのところに逃げなさいと勧めました。

 

 生みのお母さんはある病院の付添婦として自活していました。T子さんは継母から籍を抜いて生母の籍に入り、2人して生きていく道を探しました。その結果、名古屋に出て、働きました。

 神さまは一生懸命生きる者を見捨てたりはされません。T子さんはさる時計商会で働いている青年と縁談がまとまり、昭和39年(1964)の秋、見事に結婚しました。新居には母を迎えて親孝行するのだと張り切っています。

 徳永先生は黒板の前だけの教師ではなく、人生の伴走者でもありました。どれほど多くの人が助けられ、励まされたかわかりません。

 

 ≪森先生から届いたハガキ≫

 そんなある日、森先生から便りが届きました。

「拝、昨日、家内の35日の忌明けの仏事を務め、今日あなたの『天意』を拝受。例により非常に豊富な内容に、ピチピチした充実感が感じられます。

 あなたがあのまま校長をしておられたら、もちろん現在の校長さんたちの間では、断然群を抜いて業績を上げられているに違いありません。しかし、あなたが今日なすっておられるような独特の光彩(りく)()たる教育活動は絶対に不可能だったでしょう。

 

 私、近頃しみじみと痛感するのですが、『この世の中で両方良いことはない』ということです。そしてこれが本当にわかれば、哲学も宗教もいらぬとも言えましょう。

 一代、学問をし、道を求めて、齢70を超えて到達した真理が、そのような“偉大なる平凡”だったということは、我ながら驚きかつ(あき)れています」

 

 森先生は昭和45年(197010月1日消印のこの手紙で、徳永先生の教育活動を「独特の光彩を陸離と放っている」と述べておられますが、恩師にそこまで評価され、徳永先生は滂沱の涙を禁じ得なかったのではなかろうかと思います。

 

 昭和38年(1963)9月、徳永先生が輸尿管結石で倒れたとき、何と181名もの人々がお見舞いに駆けつけたのも、それだけ深く慕っていたからだといえましょう。(続き)

 

【取材メモ】

 1118日、19日は熊本県八代市に取材に行き、現場の大野小学校、免田小学校それに太田郷小学校などを訪ね、故徳永先生の教え子たちの話を聞きました。精魂込めて尽くした一人の教師の生きざまがこうも教え子たちの心に残り、彼らや彼女たちを奮起させ、それぞれ見事な人生を歩いておられるのを知った時間でした。

太田郷小学校の側を日本三大急流の一つといわれる球磨川が流れていました。遠足でこの球磨川の川原まで歩いて行ったんだという話を聞きながら、私も紅顔の美少年(?)だったころのことを思い出しました。

 


ある年の年賀状は先生の手彫りの絵ハガキでした

 

 


沈黙の響き (その20)

2020.11.14 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その20

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑨

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

 

 ≪親の祈りの心、察知する子どもの心 

 昭和38年(196310、徳永(やす)()先生は詩人のサトウハチローが「おかあさん」の詩集三冊を出版したとき、まったく心を奪われてしまいました。

 

   この世で一番

             サトウハチロー

 この世で一番美しい名前

 それはおかあさん

 この世で一番やさしい心

 それはおかあさん

 おかあさん

 おかあさん

 悲しく愉しく、また愉しく

 なんどもくりかえす

 ああ、おかあさん

 

その翌年、先生自身が78八歳の母親キカさんを亡くしたので、この詩が余計心に響いたのかもしれません。先生自身、55歳になった誕生日に、お母さんのことをこう書きました。

 

昭和47年7月3日、今日は私の誕生日です。

私はあなたの写真を拝みました。私が生まれる前の、若々しくて美しい写真です。

そしていつも思っていることを申しました。

あなたより早く亡くならなかったことが、ただ一つの親孝行でした、と。

 

(3年前の)あの大病から助かって、いま誕生日を迎えました。

母よ、あなたは私に命と心をくださいました。

愚かな私はまだそれを燃やしておりませぬ。私はいつも申しわけないと思っています。

 

亡くなられたあの夜、昭和3912月3日、

神仏のみ心か、私一人枕辺に侍していたら、またしても、

「人さまから後ろ指を指されたことのない家柄である」

「先祖さまの名を汚してはならぬ」

(さと)されました。子どものときから、母の教えはこの2つだけ。

これは大変なことだと、子ども心にシャンとなりましたっけ。

それが最後の教えとなりました。

夜が深々と更けるころ、静かな、静かな永遠の眠りにつかれました。

 

今日は私の誕生日です。

母のくり返し、くり返しの教えを静かに想いながら、

私の誕生日の感激を、世界一のあなたに捧げます。

ヒトサマにウシロユビを指されないように生きます。

 

 徳永先生はいつも子どもたちに、私たちが授かっている〝いのち〟は父母から受け渡されているものだから、あだやおろそかにしてはならないと語っていました。

 

≪もっとも多感な女生徒を襲った悲しい出来事≫

徳永先生の教職の最後は八代市の第二中学校で、教頭を務めながら、2年生に国語を教えました。そこで生徒たちにサトウハチローの詩を五十篇選び出し、謄写版印刷をして配りました。ところがある日曜日、1人の女生徒が訪ねてきました。そして最近起きた話をし、「先生、私はどうしたらいいんですか」と言って泣きだしました。

 彼女の父は母とその子を残して家を出てしまいました。そして今度はその母が3年前、祖父母とその子を置き去りにして家を出て、再婚してしまいました。しかも住んでいるところは近くで、赤ちゃんも生まれているというのです。

先生が配ったサトウハチローの詩が、逆に押さえに押さえていた悲しみを噴火させてしまったのです。先生も唖然としてしまい、どう答えていいかわかりませんでした。

 

 それからその子は足繁く、先生の家に遊びに来るようになりました。そしてサトウハチローの詩「この世で一番」を筆で書いてほしいとおねだりしました。いろいろあったとしても、その子にとって母は一番だったのです。

「そうか。負けるなよ。がんばっていい子になれよ」

 そう言って、先生も泣きながら詩を清書しました。その子はお母さんの思い出を抱きしめるかのように、「この世の中で一番」の詩を持って帰りました。悲しい家庭環境ではありましたが、ひねくれることなく、健気に中学生活が過ぎていきました。

 

「なあ、何があったとしても、人のせいにするのではなく、受けて立とうよな。自分を育てる者は、自分だからな。先生は、坂村(しん)(みん)さんの『リンリン』という詩が好きだよ。どんなことがあっても、リンとしろと自分に言い聞かすんだ」

 そう言って、「リンリン」を暗誦しました。

 

  リンリン

燐火のように

リンリンと

燃えていなければならない

鈴虫のように

リンリンと

訴えていなければならない

禅僧のように

リンリンと

鍛えていなければならない

梅花のように

リンリンと

冴えていなければならない

 

 その子もこの詩がすっかり好きになって、暗誦してしまいました。

 

それから2年後、中学を卒業し、高校に進学するとき、奇跡が起きました。

「先生! 母が……、母が、高校の入学式に来てくれました。何ということでしょう。ただただ感謝するばかりです」

 神さまがこの母と娘の心を温かく結んでくださったのです。

 親の祈りの心と、それを察知する子どもの心ががっちり結び合い、親は癒やされ、子どもは元気に成長していきました。(続く)

 


私たちを癒してくれる子どもの笑顔 

 


徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』

沈黙の響き (その19)

2020.11.7 ウィークリーメッセージ「沈黙の響き」(その19

「教育はいのちといのちの呼応です!」⑧

  超凡破格の教育者・徳永(やす)()先生

神渡良平

 

≪「元祖複写はがき」と呼ばれて≫

森先生はあるとき徳永先生に「複写はがき」を書くように勧められました。複写はがきとはカーボン紙を使って複写式でハガキを書くことで、書いた内容が手元にストックされる仕組みです。

でも夜は校務や父兄の相談や添削があって、なかなか書く時間がありません。そこで早朝3時に起きて書くことにしました。一枚たりともなおざりなはがきにしたくなく、宛名は必ず筆で書きました。複写はがきを書くことが登校前の日課になり、13年間で460冊、約2万3千通となりました。

 

毎日分厚いはがきの束を配達する郵便局員が、

「これだけに返事を出すだけでも、はがき代が大変でしょう」

とねぎらうと、

「いえいえ、これらの手紙を配達してくださっているから、とても助かります」

 と逆にねぎらわれて、恐縮したそうです。現在では全国各地で「はがき祭り」が行われるようになり、複写はがきの「元祖」と呼ばれています。

 

≪『教え子みな吾が師なり』が刊行される≫

 徳永先生は太田郷小学校ごぼく会の生徒たちの中学卒業記念に、ガリ版刷りのB5版縦型の手作り冊子『ごぼく2』を、さらに中学卒業10年記念に『ごぼく3』を出して、みんなを激励されました。また同級生の一人が不慮の死で亡くなったときは、みんなの文章を集めて追悼号を出されています。3号まではまったく先生の努力によります。

 

大阪で森信三先生を迎えて大阪ごぼく会を行った際、実践人の会員で尼崎市の前川守先生のすすめもあって、今度は卒業生たち自身の手によって、369ページにも及ぶ小学校卒業15周年記念号『ごぼく4』が作られました。そこには徳永先生がいつも生徒たちに語っていた言葉が綴られていました。

「この広い世界に“自分”は一人しかいない。そして自分を育てるのは自分である」

その編集を担当した、当時大阪に在住していた植山洋一さんは「徳永先生と五木会」と題してこう書いています。

 

「人生につまずきかけたり、家庭の不孝など、悩み困っている者があると、徳永先生はすぐさま来て慰め励まし、本人がその不幸や苦しみから立ち直るまで、真剣に話してくださいました」

徳永先生と卒業生たちのいのちの響き合いを描いたこの冊子は教育者の間でたいへん評判となり、例えば大阪府堺市の辻屋弥三郎先生はこう書いています。

「教え子を師とし、教え子に詫びるなど、切々たる情がほとばしり出ており、今の日本の教育界に光るただ一つの星のような気がします。本当に頭がさがります」

 

 ≪教育は教師のいのちと生徒のいのちの共鳴だ≫

同じ熊本県菊池郡の工藤誠一先生はお礼の手紙にこう書かれました。

「ぴたりと引き付けられたのは柴藤清次さんの一節で、息もつかぬほど、一気に読みました。“名もなき民”のまごころの交流が流露しておりました。特別な優等生でもなさそうな、それも30に足らないぐらいの人たちがよくもすらすらと書けるものだと驚いています。日記をつけるなど、小さな努力の積み重ねがこうなったのでしょうか」

そして奥さんのつぶやくような感想を書き添えておられます。

「偉い人やな――徳永先生は。こんな人がこの日本におられるのかな――。信じられないくらい。小学校時代、わずか1、2年間担任されたぐらいで、こうもかわるものだろうか」

 

 そして尼崎市の前川守先生は20部注文して、植山洋一さんにこう書かれました。

「日本の教師の中で誰がこの喜びを味わい得たでしょう。多少の師弟のつながりはあっても、五木(ごぼく)の会員と徳永先生との固い絆で結ばれているものは、よもや他にはないのではないかとさえ思われるのです」

 

 あるいは東京都の()(へい)(かず)(つぐ)先生は徳永先生にこう書かれました。

「昨夜、『ごぼく』を味読し、一種の亢奮(こうふん)からでしょうか眠れず、午前2時ごろまで読みました。教育者というものは、ここまでくれば、地位とか、世間的名誉とか、物的財産とか――そんなものは、はるか断崖の下の方に眺められることになりますね」

 

だから500部刷ったのにまたたくまに無くなってしまいました。森先生は『ごぼく4』を激賞し、こう述べました。

「最後にごぼく会会員の方々にお願いしたいことは、どうぞ諸君たちの力によって、この“悲劇の大教育者”たる徳永康起先生の真の偉大さを、あなた方の“生”ある限り、広く世の人々に述べ伝えて頂きたいということである。かくしてのみ氏の今日までたどられた“悲劇”の道も、やがて“天意”によって導かれた“栄光の道”だったということになるであろう」

 

そしてこの「幻の書」をこのままにしておくのは惜しいと、いろいろな出版社に再出版を持ちかけました。その熱意に応えて浪速社が新たに徳永先生の文章を加えて、『教え子みな吾が師なり』として刊行し、日本の教育史に輝く異色の実践記録となりました。

 

ここで森先生が徳永先生を“悲劇の大教育者”と呼んでいるのは、折角、一大決心して平教師になったのに、三年半で教頭職にもどされてしまい、児童生徒と直接心の通いあう教育の場を断たれてしまったからです。徳永先生としては不本意でしたが、従わざるを得なかったので、それで“悲劇”と言われたのです。

 

≪「幻の書」が『教え子みな吾が師なり』として新装再出版される≫

鳥取県の校長で、森門下生の三傑の一人と目される小椋(おぐら)(まさ)()先生は、徳永先生と同じ明治45年(1912)生まれで、おい、お前と呼び合う非常に気心の通じた同志です。小椋先生は早速、個人誌『ませんろく』に『教え子みな吾が師なり』を次のように紹介されました。

「この書は『教え子を師』と考えるべきであるという理念を述べたものではなく、また『教え子を師』と思うべきであるという信念を述べたものでもない。徳永がその生涯を振りかえって、そういう感慨を吐露せざるを得なかった事実を羅列したものである。

 

『教え子みな吾が師なり』など教員のよく使うセリフで、キザであるが、こと徳永に関する限り私は一言の反揆もない。彼は思わせぶりな気のきいたシャレた言い方のできるほど器用な男ではない。彼はこの場合、こういうより外になかったのである。

 

もともとこの書は世間に売り広げるために作られたものではなく、彼が担任していた生徒たちが、小学校を卒業して15年を経た今日、師と共に過ごした子どもの頃をなつかしんで、その思い出をまとめて師に捧げたものである。

 

言わば、徳永という一個の肥後もっこすが、世間的な名声も校長の椅子もなげすてて、一途に子どもの中にとけこんだ生涯に対するたったひとつの最高最大の贈り物である。そのおすそわけを我等凡庸の教員が頂くわけである」                            

これは同じ教職にある者が捧げた最高の賛辞ではないでしょうか。(続く)

 徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』徳永先生と教え子たちの強い絆を描いた卒業生の文集『ごぼく』