日別アーカイブ: 2021年8月7日

沈黙の響き (その61)

「沈黙の響き」(その61

ベートーヴェンの失意と奮起

 

 

生身の人間にとって、奮起したり、失意したりするのは、ごく日常的に起こるもので、生きている限り、上がり下がりがあるのは当然です。問題は落ち込んだとき、どうやって自分を立て直し、奮起するかですが、見事な人生を歩いて結果を出している人は、そのあたりのコツを知っています。

 

その例を、音楽家にとって決定的に重要な聴力を失い、失望し、自殺寸前にまで追い込まれたベートーヴェンは、その危機を乗り越えて立ち直りますが、どういう過程を経て乗り越えたのか、それを見てみましょう。

 

ベートーヴェンはドイツで類まれなるピアニストとして登場しました。その後、オーストリアの音楽の都ウイーンに移ってハイドンに師事して腕を磨き、作曲家として名声を高めていきました。

 

≪難聴になったベートーヴェン≫

ところが、2627歳ごろからだんだん耳が遠くなり、聴こえにくくなりました。初めは雑音がざわざわしていただけでしたが、次第に難聴が進み、劇場ではオーケストラのすぐ前にいないと俳優たちの声が聴き取ることができません。少し離れると楽器の高音部分も聴き取れなくなりました。

 

そのころ、ベートーヴェンは長らく下痢に悩まされていたので、下痢が原因で聴覚もおかしくなったのではないかと思いました。そこで侍医のフェーリング先生に診てもらうと、先生はダニューブ河の温泉で微温浴することを勧めました。

オーストリア・アルプスに端を発し、シェーンブルン宮殿の東側をとうとうと流れ、宮殿を過ぎると西に向きを変え、オーストリア・ドイツの平原を潤しています。ベートーヴェンは難聴のことは人にはひたすら隠し、微温浴をして治療に専念しました。

 

1802年、ベートーヴェンはウイーンの北北西の郊外、ダニューブ川の西岸にある、限りなく美しい牧草地に囲まれたハイリゲンシュタット村に移って静養しました。

そこにピアノの弟子のフェルジナンド・リースが村を訪ねてきました。2人で散歩をしていると、リースが耳を澄まして、

「おや、先生、どこからか牧歌的な笛の音が聴こえてきますね……」

とつぶやいたのです。ところがその笛の響きがベートーヴェンには聴こえません。

ベートーヴェンは、音楽家は誰よりも繊細な聴覚を持っているべきだと思っており、自分の聴覚は並外れて優れていると自信を持っていただけに狼狽(ろうばい)しました。

〈ええっ、何だって! 笛の音が聴こえるって? ぼくには何も聴こえない。

とうとう……本物のつんぼになってしまったのか!〉

 

 音楽家にとって、耳は何よりも大切な器官です。

ベートーヴェンは楽想を得るため、よく森の中を散歩しました。広大な青空が広がり、白い雲がところどころに湧いています。その開放感はベートーヴェンにとってはたまらないものでした。頬を撫でるそよ風や天使が踊っているような木漏れ日、青々とした森の谷川のせせらぎ、そして農耕に励む農民たちの姿は豊かな楽想を与えてくれました。

 

風雨にびっしょり濡れるのもかまわず野山を歩き回り、時に耳をつんざくような雷鳴ですらもインスピレーションを与えてくれ、浮かんでくる曲想をスケッチしました。目で見える視覚もさることながら、聴覚はベートーヴェンにインスピレーションを与えてくれていました。だからベートーヴェンは聴覚を失って深い苦悩に襲われたのです。

 

≪「ハイリゲンシュタットの遺書」≫

その年の10月、絶望したベートーヴェンは自殺しようとし、弟カールとヨハンに宛てた遺書に自分の葛藤を書きつけました。

「私はまだ28歳になったばかりで、やりたいことがいっぱいある。私に課せられた仕事を完成しないうちは、この世を去ることなどできない」

 

ベートーヴェンは冷酷な運命の女神に死の淵にまで追い詰められましたが、死のうとしても死ねません。遺書を書いていた机を叩いて、絶叫しました。

「私は芸術のために、この苦境に何としても打ち克たなければならない!」

ベートーヴェンは遺書を書いていたはずでしたが、逆に芸術に身を捧げることを誓った宣言文を書き上げたのです。これが「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものです。

 

“芸術のために”という使命感が難聴の危機を乗り越えさせました。

 やはり、自分に“大いなる存在”から託されていると思える課題を、何としても成就しようと覚悟を決めたとき、人は俄然強くなります。ベートーヴェンが生きる力を取り戻したのは、天的使命を自覚したからに違いありません。

 

 この時期、ベートーヴェンは心の恋人ジュリエッタ=ギッチアルディに、幻想的な作品ピアノソナタ「月光」を捧げています。雲間から漏れる月の光を、タン・タターンのゆったりとしたリズムでくり返して表現し、宇宙の神秘の扉を次第に開いていきます。

 自殺すら思い立ったハイリゲンシュットの苦悩を表現しています。

 

第2楽章に入ると陰鬱な夜の情景が打って代わって速いテンポに切り替わり、苦難から解き放たれた喜びを訴えます。明らかにベートーヴェンは、難聴は激しくなったけれども、音楽家としての使命を放棄することはできないと再度決意しました。

そして第3楽章ではプレスト・アジタート、さらにアップテンポになり、激しさに満ちあふれた音楽に変わります。

明暗2つの世界を苦しみながら書き上げたこのピアノソナタは、ベートーヴェンに新しい世界が訪れたことを伝えてくれています。

 

ベートーヴェンは32曲のピアノソナタを書きます。中でも第8番「悲愴」、第14番「月光」、第23番「熱情」が3大ピアノソナタと呼ばれています。ベートーヴェンはただの音楽家ではなく、「苦悩を乗り越えて歓喜に至った」音楽家だったのです。

 

 癇癪(かんしゃく)持ちだったベートーヴェンは、なかなか良好な人間関係を維持できず、作曲を教えてくれた師匠のハイドンとも喧嘩別れをしました。彼が生涯独身だったのは、彼の癇癪持ちという性格に女性がついてこれなかったという側面もあるようです。

 

≪“沈黙の響き”が伝えてくれた交響曲「運命」の主題≫

 苦難を乗り越えて、1803年以後の第2期の、ロマン・ロランに言わせれば「傑作の森」という時代が始まりました。ベートーヴェンの親友で伝記作者のシントラーが、第5交響曲の最初に鳴り響く有名な主題「ジャジャジャ・ジャーン」について尋ねたところ、ベートーヴェンは即座に答えました。

「運命は……かくのごとくに扉を叩くんだ」

「沈黙の響き」に耳を澄ませて聴き入ったとき、聴こえてきたのが、あの主題だったのです。

 

以来、第5交響曲は「運命交響曲」と呼ばれるようになりました。沈黙は決して“無音の闇”なのではなく、もっとも雄弁な曲想の宝庫なのです。これに続く第6交響曲「田園」も同じ「傑作の森」の時代区分に入る作品です。

 

 こう俯瞰(ふかん)すると、「沈黙の響き」をさし置いて創作活動はできないことがわかります。(続く)

写真=苦難を乗り越えて光を見出したべートーヴェン