日別アーカイブ: 2022年8月27日

澤田美喜と子どもたち

沈黙の響き (その116)

「沈黙の響き(116)」

エリザベス・サンダース・ホームは大磯の発展の阻害要因か?

神渡良平

 

◇「こんな女に誰がした……」 捨て鉢な恨み節が流れる街

 昭和20年(1945830日、米軍や英国連邦軍が上陸を開始したわずか2時間後、36歳の母親と17歳の娘が米兵に襲われ、強姦されました。しかし、当の米兵は治外法権を適用され、何の咎めも受けることなく釈放されました。

敗戦の事実を否応なしに突きつけられた惨めな事件でした。

 

 空襲によって焼け跡になった日本は食べていけませんでした。

中央西口を出て薄暗いガード下に入ると、パーマネントをかけ、厚化粧をした夜の女たちが、米兵を求めてたむろしていました。近くには必ずといっていいほど、足のない傷痍軍人たちが松葉杖をつき、あるいは地べたに座って物悲しいアコーディオンの曲を奏でていました。それが敗戦の哀しみをいっそう増幅しました。

 

どこからか聴こえてくるラジオからは、「ラク町お時」こと西田時子の捨て鉢な恨み節、

「こんな女に誰がした……」

 が流れてきます。家族も家もすべて失い、焼け跡で夜の女として生きるしかない身を嘆いて歌うそのブルースは、パンパンと呼ばれさげすまれた女たちの呻き声でした。それは有楽町のガード下だけではなく、新橋でも品川でも横浜でもどこでも見られる光景でした。

 

 米海軍が根拠地とした横須賀には「どぶ板横丁」と呼ばれた赤線地帯がありました。マスコミはGHQの手前、表立っては書けませんが、ひそかに「どぶ板横丁」を「性の防波堤」と呼んでいました。乱脈な性行為の末に生まれる混血児に手を焼き、横須賀市が街娼婦を一斉検挙したところ、2500人が検挙されました。

 

◇美喜さんへの口汚い中傷

 そんな世相のなかで、澤田美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームを運営したので、大磯の町では拒否反応が起きました。口さがない人たちが美喜さんの陰口を叩きました。

「財閥の令嬢がよりによって混血の孤児を集めているんだって。敵国兵が生み落とした子じゃないか。ほっておけばいいんだよ」

「なぁにあれは岩崎家の別荘を使いたいために、隠れ蓑として混血孤児を利用しているだけだよ」

 そんな声が聞こえてきます。世の中には自分で責任を取ろうとはしない評論家がごまんといました。

 

「占領軍に別荘を接収されるのを恐れて、孤児院という看板を掲げているだけだよ。口八丁に手八丁、嘘で固めた企画だね」

「エリザベス・サンダース・ホームなんて、三菱財閥の令嬢の一時の道楽ですよ。一年もしたら放り出すでしょ」

 噂話をする人は鼻でせせら笑っています。

「それにしても、あの混血児たちは生きていても苦しむだけなんだから、いっそ小さいときに死なせたほうが慈悲というものだね」

「自分でさえ食べるのに必死なのに、よくも戦争孤児を引き受けて育てるなんていう余裕があるな。金持ちの道楽、ここに極まれりと言うべきか」

 などと、言いたい放題でした。

 

実はGHQにとっては米兵と街娼(がいしょう)との間に生まれる混血児は頭痛の種でした。性道徳の紊乱(びんらん)そのもので、米軍がこの不道徳をもたらしたと言えます。したがって大磯のエリザベス・サンダース・ホームで百人を超す混血児たちが養育されているのは由々しい問題でした。GHQ内部ではエリザベス・サンダース・ホームを不許可にして、混血児たちはできるだけ目立たないように全国に散らばして育てるべきだという意見もありました。

 

 GHQの意向は当然神奈川県にも大磯町にも伝わっており、行政は協力できないと、陰に陽に執拗な嫌がらせをしました。そういう空気が伝わって大磯町にも、エリザベス・サンダース・ホームが活動しているのは容認できないと険しい雰囲気がありました。

澤田さんが町を歩いていると、うしろから、

「やーい、パンパンハウスのマダム! 日本人の面汚しめ。何でそこまでアメリカのご機嫌を取るのか。くそったれー、恥を知れ」

 と、罵(ののし)られました。

 

暗い夜道ではどこからともなく、石が飛んできました。列車内では美喜さんが乗っていると気づくと、これ見よがしに大声で叫ぶ人もありました。

「大磯町の発展を邪魔しているのは、エリザベス・サンダース・ホームだ。あの岩崎山はダイナマイトで吹き飛ばして、駅前から白砂の砂浜にまっすぐ出られるように道を付け、大磯ビーチとして宣伝し、しっかり都市計画すべきだ」

 

 美喜さんが黒い子を抱いて列車に乗っても、席を譲る人はありません。それどころか、まわりにたかって通路をふせぎ、子どもたちの耳に入れたくない「クロンボ」だの「合いの子」だのさげすみの言葉を投げつけました。

 

◇エリザベス・サンダース・ホームは児童を虐待している?

 エリザベス・サンダース・ホームの子どもたちが41人、百日ぜきに感染して寝込んだことがありました。そのうち22人が肺炎を引き起こし、澤田さんや保母たちは寝ずに看病しました。しかし、その看病もむなしく、とうとう7人が亡くなりました。7つの小さな棺桶が運び出され、葬儀場へと向かいました。

 

 それを目撃した市民の中に、夜陰に紛れてホームの門の壁に、

「寿(ことぶき)産院」

 と張り出して、嫌がらせをする人がありました。寿産院事件とは東京・牛込にある産院の経営者夫妻が預かった120人余りの乳児を殺し、養育費や配給品を着服していたことが発覚して問題になった事件で、それに引っかけてエリザベス・サンダース・ホームを非難したのです。

 

 澤田さんはその7名の犠牲者の親に連絡を取り、遺骨を引き取ってくださいとお願いしました。でも引き取りに来た母親は一人もありませんでした。再度連絡して、

「そちらの墓地に埋葬していただけませんか」

 と、お願いしても、

「親もわからない混血児の遺骨をうちの墓に納めるなど、先祖は絶対に認めません」

 と、断られました。娘がこっそり私生児を生んだ不始末はまったく棚に上げて、素知らぬ顔をされました。やむなくエリザベス・サンダース・ホームの納骨堂に収めましたが、美喜さんはこのときほど亡くなった子どもたちを愛おしく思ったことはありませんでした。

 

◇泣く子も黙るGHQに談判した美喜さん 

 日米戦の勝利を誇る占領軍にとって、占領の落とし子として生まれた混血児に触れられることは痛いことでした。だから、サワダは混血児問題で反米をあおり、左翼や共産党に恰好な材料を提供していると非難されました。

そうしたころ、美喜さんがアメリカに滞在していたころの友人たちが寄付金を送ってくれました。美喜さんはその寄付金で清潔なベッドを購入して子どもたちを寝かせました。

 

 するとそれがGHQの幹部夫人たちの癇に障ったらしく、

「孤児たちをベッドに寝かせているんですって? それは贅沢というものよ。孤児たちは日本人らしく、床にごろ寝をさせたらいいわ」

 と、非難されました。

 それが回りまわって美喜さんの耳に入りました。途端に美喜さんはカチンと来ました。

娘時代から負けん気の強い澤田さんは、当時全盛を誇っていた名横綱にならって「女梅ケ谷」とか、三菱財閥の創立者岩崎彌太郎の孫娘であることから「女彌太郎」とも呼ばれていました。その負けん気でGHQ経済科学局長のマーカット少将や、渉外局のウェルチ大佐に抗議に行きました。

 

「泣く子も黙る占領軍」と恐れられた時代です。日本人は首相以下、占領軍の意向にひれ伏して口をつぐんでいた時代に、これほど真っ正面から抗議する人はそうそういませんでした。美喜さんを「三菱財閥の令嬢のわがまま娘」と非難する人もありますが、この体を張った抗議は誰も非難できません。正真正銘本気だったからこそ、GHQ内部でも日本聖公会の幹部の間でも、美喜さんを支持する人が多かったのです。

 

 私はこの稿で「進駐軍」という呼称を使わず、あえて「占領軍」と書きました。それには理由があります。GHQは「占領軍」という名称は強すぎるので「進駐軍」と呼ぶよう指令しました。「占領軍」という強い語感を消して「進駐軍」としたのです。そこで私はあえて「占領軍」という呼称に戻して、当時の雰囲気を再現するように努めました。

 

◇地獄に仏――善意の人々が寄せた密かな支援

 美喜さんが乳児に飲ませるミルクがなくて困り果てていたとき、夜遅く米軍のジープで大きなミルク缶4ダースが届けられました。旧知のグルー元駐日アメリカ大使がペニシリンを送ってくれたこともありました。

 

 その夜美喜さんはホーム内の聖ステパノ礼拝堂で泣きながら、神に感謝しました。

「主イエスよ、あなたは私たちが何を必要としているかご存知でした。お腹を空かして泣いている乳飲み子に替わって、心から感謝いたします」

 “大いなるもの”に捧げる絶大な信仰があるからこそ、保母たちはみんなついて行ったのです。

澤田美喜と子どもたち

写真=澤田美喜さんと混血孤児たち