「沈黙の響き(その97)」
前田敏統さんにとってのボランティア元年
神渡良平
「沈黙の響き」(その53)に、山口市の友人前田敏統(としのり)さんがご自分のニュースレター「養黙」に書かれた「セキレイが示した母性本能」を転載したところ、多大な反響がありました。
しかも臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長がラジオ番組で前田さんとセキレイの母鳥の話を採り上げて、華厳経の教えにからめて説いてくださったので、前田さんのことを知らない人はないようになりました。
その前田さんが「養黙」3月号に掲載された文章が心に響くものがあったので、許可を得て転載しました。
「平成7年(1995)1月17日、阪神淡路大震災が起きたとき、私は仕事を辞めていたので、復旧に駆けつけることができましたが、これが私の生き方を180度変えることになろうとは思いもしませんでした。
ある朝、テレビの報道をぼんやり眺めていると、焼け跡で呆然とたたずむ老人に、リポーターが訊ねていました。
『どうしたんですか? ボーっとしていて』
すると、老人は張り裂けそうな思いで、
『わしは女房を見殺しにしてもうた!』
と答え、泣き崩れました。
『わしら夫婦は2人とも潰れた家の下敷きになった。わしは何とか這いだし、家内を助け出そうとしたが、崩れた家の下敷きになっていて、引きずり出すことができない。まわりの人たちや消防隊も懸命に努力したが、崩れ落ちた材木はびくともしなかった。消防隊は救助可能な人から先に助け出すしかないので、他の人の救助に取り組んだ』
消防隊が去ったあと、老人は血だらけの手で奥さんを救い出そうとしましたが、どうにもなりませんでした。そのうちに燃え盛る火の手が迫り、熱さが背中を焦がし始めると、家内が叫びました。
『アンタ! ありがとう。私はもういいから、アンタは早く逃げて!』
わしは目の前で家内が焼け死ぬのを、泣き叫びながら、見守るしかなかったんや』
老人はそんなやるせない話をテレビのリポーターにして、大粒の涙をこぼした……。
その報道を見ていて、私は自分を恥じました。いや自分をさげすみさえしました。
私には家も車も無傷のままあるし、かたわらには元気な妻もいる。なのに私はぬくぬくと惰眠をむさぼっているではないか――。
と、過去のことがさまざま心をよぎります。仕事上の不満からかっとなって会社を辞めてしまい、収入が無くなって家内に辛い思いをさせてしまいました。ああ、何と情けないことか――
(よし、復興の手伝いに行こう。あの老人のように、後悔しちゃいけない。行くしかない! 行くべきだ!)
と決心しました。しかし有り金だけでは足りないので、わずかな貯金まで下ろし、取り急ぎ電車に飛び乗って神戸に向かいました。でも、電車の中で私は家内に詫びました。なけなしのカネを持ってきてしまい、家内にはまた申し訳ないことをしてしまった――。
紙面が足りないので詳しいことは書けませんが、神戸淡路大震災の復興で汗を流したことは、私ども夫婦2人のその後の生き方を変えた出来事となりました。
その後、中越地震その他、いろいろと大地震があり、その都度自分にできる範囲で協力してきました。神戸には結局10年の援助を続けてきました。その力はとても小さいものでしたが、精いっぱいのことをさせてもらいました。
阪神淡路大震災は<ボランティア元年>と呼ばれ、後の人々に引き継がれていき、東北大震災でも生き続け、多くの人が復興に駆けつけ、汗を流しました。貧乏人の私ができることは、ただ汗を流すことしかありません。でもその汗をありがたいと思ってくださる方がいるかぎり、私は現場の復旧で汗を流すつもりです」
前田さんはニュースレターをそう締めくくっておられました。
読み終わった私の心に、さわやかな春風が吹いてきました。リビングルームから窓越しに、黄色いレンギョウと真っ白なユキヤナギが咲き誇っているのが見えます。そのユキヤナギの花が春爛漫の風情をいっそう引き立て、前田さん夫妻が被災地で流される汗を称えているようでした。
写真=阪神淡路大震災とパンジー