月別アーカイブ: 2022年3月

ありし日の誠さんご夫妻 

沈黙の響き (その94)

「沈黙の響き(94)」

目を覚まさせた奥さまの本音の折檻

 

 

 愛媛県大洲市で「まことや」というパン屋を営んでいた次家誠さんが事故で倒れたのは、平成12年(2000118日の夜8時半でした。パン工場で仕事をしていた誠さんが、立ちくらみがして前に倒れ、ケーキミキサーでしたたかに前頭部を打ち、反動で後ろに倒れて首の後部を強打し、血まみれになって倒れてしまいました。

 

 同じパン工場で仕事をしていた息子さんの誠一さんは、人が倒れる物音を聞き、駆けつけてみると、父親が倒れていました。これはいけないと救急車を呼び、市立大洲病院に運びました。MRI(核磁気共鳴画像)検査で精密検査した結果、頚椎損傷3番、4番を損傷しており、首を固定してICU(集中治療室)に運ばれました。幸いにして命は助かったものの、知覚神経も運動神経も麻痺して寝たきりになりました。

 

「まことや」を引き継いだ誠一さんは店を閉め、明日の仕込みを終えて病院にやってくるのは、どうしても9時を過ぎてしまいます。痛みと痺れのある父の体をマッサージし、言葉を交わして「じゃあ、また明日来るよ」と病室を出ていくのはいつも11時を過ぎていました。

 深夜の零時、寝静まった病棟の廊下をコツコツ歩いてやってくるのは3男の洋明さんです。隣の松山市の自動車の整備工場で働いているので、残業が終わってから高速道路を一時間飛ばしてやってきても、どうしても零時を回ってしまうのです。

 

 油臭い作業着のまま、洋明さんは父の体をマッージして、今日あったことを話します。誠さんにとって幸せなひと時です。「おやじさん、がんばって!」と声を掛けて帰っていくのはもう2時近い時間です。誠さんは子どもたちに励まされて、幸せなリハビリ生活を送りました。

 

 そんなある日、末期ガン患者の友人がお見舞いに来ました。お見舞いに来てくれたのはありがたかったのですが、友人は抗ガン剤に耐えることの辛さを語り、「俺はもう長生きできない体になってしまった」と愚痴をこぼしました。すっかり痩せて老人のようになってしまった友達を見送って、誠さんもすっかり悲観的になってしまいました。

「末期のガンだと言うけど、俺は彼がうらやましい。彼はここまで歩いてこれたんだ。でも俺は寝たきりで、歩くことも動くこともできない。ああ……」

 

 病棟にはそれぞれのいのちと向き合っている入院患者がいます。真夜の病棟は看護師の巡回の足音だけが響いて本当に寂しいものです。その静けさを破って、突然廊下を走る音がして、医師を呼ぶ看護師の声が聞こえました。本を読んでいた誠さんはぎくりとして、全身が耳となりました。

 

あの足音は友達の部屋に出入りする音ではないか! がんばれよ、負けるなと拳を握り、声援を送りました。1時間ほどが過ぎ、家族がすすり泣く声が伝わってきました。病室の暗がりの中で、誠さんは奥さんにそっと語りかけました。

「母さん! とうとう駄目だったようだ……かわいそうに」

仲良くしていた友達が天国へ旅立ったので、翌日は心が重い日となりました。

 

 誠さんは付き添いに来てくれている奥さんに愚痴をこぼしました。

「家に帰りたい。家に連れて帰ってくれ。もう病院にいるのはいやだ」

 あまりにしつこく頼まれるので、奥さんもたまりかねて言いました。

 

「私は両親の反対を押し切って、お父さんのところに嫁いできたんよ。商売人に嫁いでも苦労するだけやからと両親に反対され、それでもと反対を押し切ってあんたの所に嫁いできたんよ。だからどんなに辛いことがあっても、私には帰る家がなかった! 歯をくいしばって、くいしばって、辛抱するしかなかったんよ。

 

でも、お父さんには、リハビリをがんばって早く回復して、帰っておいでと言ってくれる子どもたちがいるやない! お父さんには帰れる家があるやないの! 

それなのに何よ、弱気を出して、めそめそ泣いて。癇癪(かんしゃく)を破裂させたりして。今ここでがんばらなかったらどうすんの! みんなよくなると信じて待ってくれてんのよ」

 

 奥さんは積もり積もった本音をご主人にぶちまけて、わあわあ泣きました。奥さんに折檻され、誠さんは穴があったら入りたい思いでした。

 

入院してから2年2か月たったひな祭りの日、誠さんは奥さんに車イスを押してもらい、自分の足で一歩、一歩、そして右、左と、大地を踏みしめて歩きました。歩ける! 足がちゃんと動く! 嬉しさが体を突き抜けました。

少し疲れたので車イスに乗り、散歩していると、草花や虫の“いのち”を感じます。

「ああ、みんな同じいのちを生きているんだね!」

 

 誠さんは車イスの生活になってみて、「懸命に生きている野の花が摘めなくなった」といいます。パン生地をこねてパンを作ることはできなくなったけど、それでも毎日お店に出てお客様を応対しました。2本しか動かない指でまめにハガキを書いて出したので、「誠さんからハガキをもらっちゃった!」と喜ばれました。誠さんはそれから14年間生き長らえ、84歳で大往生して天国に召されていきました。

ありし日の誠さんご夫妻 

flower
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次家さん夫妻

写真=車イスになった誠さん。長浜のお店はいま若夫婦がお店を引き継いでがんばっています。
https://tabelog.com/ehime/A3803/A380301/38001203


水野源三の詩集

沈黙の響き (その93)

「沈黙の響き(その93)」

瞬(まばた)きの詩人・水野源三さん

 

 

◇「わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか!」

パン屋を営んでいる源三さんの家に、パンを買いにやってきた牧師さんが縁となって、教会に行くようになり、聖書を読むようになりました。そしてイエスが歩まれた道を知るようになると、それまでと違った風景が見えるようになりました。

それまでは自分ほどつらい人生を歩まされている者はないと苦しんでいましたが、その苦しみの向こうにイエスがおられたのです。そのイエスは否定され、ののしられ、裏切られ、最後には十字架に張り付けにされて殺されたのです。

 

それでもイエスの眼差しは澄んでいました。誰一人疑ってはいませんでした。そして従容と十字架につかれたのです。エルサレムのゴルゴダの丘、絶命の寸前、イエスは天父に向かって叫びました。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ!

(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか!)

 イエスは内側から突き上げてくる不信の念と最後の最後まで闘い、しかしすべてを天意に預けて死んでいかれました。

 

源三さんにとってイエスはもはや人ごとでは無くなりました。まさか自分がイエスを拒否し……十字架に追いやったのでは……。重たく受け止めたのです。

苦悩の末に、「私がいる」という詩を書きました。

 

ナザレのイエスを

十字架にかけよと

要求した人

許可した人

執行した人

それらの人の中に

私がいる

 

源三さんはこの詩を涙なしには書けませんでした。

一字一字、文字を選び、泣いてお詫びしました。

私があなたを否定した……罪びとの頭でした。

私のために……敵の手に渡され……

十字架にはりつけにされたんです……。

申し訳ありません……どうぞ赦してください……。

 

◇もしも苦しまなかったら……

そして「苦しまなかったら」という詩が生まれました。源三さんはそれまで苦しんできたことに意味があったんだと気づいたのです。もっと言えば、苦しみによって導かれていたと気づいたのです。

 

もしも私が苦しまなかったら

神さまの愛を知らなかった

多くの人が苦しまなかったら

神さまの愛は伝えられなかった

もしも主イエスが苦しまなかったら

神さまの愛は現れなかった

 

源三さんは信仰を持つに至りました。それからの源三さんはすっかり変わりました。いじいじと悩んで暗かった源三さんが、霧が晴れたように明るくなり、快活になりました。彼の詩はますます喜びがあふれるようになり、キリスト教雑誌の『信徒の友』や『百万人の福音』などに掲載されるようになりました。

 

源三さんの妹・林久子さんが『悲しみよ、ありがとう』(日本キリスト教団出版局)という本を書き、「私の心の目を開いてくれたのは兄でした」と述懐しています。NPO法人支援センターあんしんの久保田果奈子さんはそれまでうとましく思っていた障がい者の妹が、

「私に幸せをくれたのは、妹のアッコだった!」

と気づいたのと同じです。障がいを抱えた兄や姉や妹が実は導きの星だったのです。

痛みや哀しみは私たちの心の目を開いてくれます。妹さんが人生の深みを見せてくれていたのです。

 

源三さんの詩は第1詩集『わが恵汝に足れり』ほか4冊の詩集に収録され、死後も何冊も詩集が編まれました。そのうち20篇ほどが讃美歌となり、それらを収録したCDも発売されています。源三さんは昭和59年(1984)、この世の務めを終え、「感謝以外のなにものもありません」と言い残して、47歳で天に召されていきました。

水野源三の詩集

水野源三の詩碑

いのちをありがとう

写真=水野源三さんの詩集や詩碑


こたつに入っている水野源三さん

沈黙の響き (その92)

「沈黙の響き」(その92

瞬(まばた)きの詩人・水野源三さん

 

 

◇“いのちの母”の愛を称えた“瞬きの詩人”

障害を克服して何ごとかをなし遂げた人は、私たちに多くのことを語ってくれます。車イスのカメラマン田島隆宏さんと同じように大変なハンディを背負った人に、詩人の水野源三さんがいます。水野さんは9歳のとき赤痢にかかって脳性小児麻痺になり、視覚と聴覚以外のすべての機能を失ってしまいました。

お母さんは幼い源三さんと何とかコミュニケーションを取ろうと模索し、50音表を指さしました。するとお母さんの指が意図するところに来ると、目をしばたいて合図を送ってきたのです。

「あっ、源ちゃんが何か伝えようとしている!」

一字、そしてまた一字、だんだん言葉になっていきます。お母さんは懸命に描き留めました。ついに源三さんの気持ちが伝わりました。もう10歳になっていたから、文章を書くことができたのです。

「源ちゃん、よかったね。とうとう気持ちが通じるようになった!」

しゃべることも動くこともできない源三さんでしたが、18歳ごろから自分の気持ちを詩に表現するようになりました。彼のなかにみずみずしい感性が育っていたのです。たとえば詩「ありがとう」にこう表現しました。

 

ものが言えない私は

ありがとうのかわりに

ほほえむ

朝から何回も

ほほえむ

苦しいときも

悲しいときも

心から

ほほえむ

 

返事をすることができない源三さんは、その代わりに、にっこり微笑んでいたのです。それは誰もが魅了されてしまうほどで、こぼれるような笑顔でした。源三さんを無音の闇から導きだし、人々と意思が疎通できるようにしてくれたのはお母さんでした。お母さんは源三さんにとって文字通り“いのちの母”でした。だからお母さんについてたくさんの詩を書きました。

 

白い雲は

母の顔

笑った顔が

泣いた顔に変わり

雨となる

 

雨の音は

私のために

祈り続けてくれた

母の声

 

雨あがりの空は

私の重荷を

になってくれた

母の愛

 

人々は源三さんの詩に心を揺さぶられ、いつしか「瞬(まばた)きの詩人」と呼ぶようになりました。

 

消しても消しても決して消えない母の姿、涙、祈り

 

源三さんの瞬きを一字一字書き取って詩を書いてくれたお母さんは、文字通り源三さんの手でした。次の「まばたきでつづった詩」は、献身的な愛で支えてくれたお母さんへの慕情がほと走り出ています。

 

口も手足もきかなくなった私を

二十八年間も世話をしてくれた母

良い詩をつくれるようにと

四季の花を

咲かせてくれた母

まばたきでつづった詩を

ひとつ残らず

ノートに書いておいてくれた母

詩を書いてやれないのが

悲しいと言って

天国に召されていった母

 

朝、母が庭で落ち葉を掃いている音が聴こえてきます。そのうち、掃いた落ち葉を燃やしている煙と臭いがただよってきます。それもこれも母の思い出につながっていました。

 

今も夢の中で老眼鏡をかけ

書きつづけていてくれる母

 

どこからか落葉掃く音が

聞こえてくる

落葉を焚く煙と臭いが漂ってくる

こんな朝は

 

消しても消しても

決して消えない

母の姿が

母の涙が

母の祈りが

 

源三さんは母が自分にとってどれほど大きなものであったか、改めて知りました。

詩の最後に、

「消しても/消しても/決して消えない/母の姿が/母の涙が/母の祈りが」

 とリフレインされますが、消しても消しても消えない面影でした。無条件の愛を惜しみなく注いでくれたお母さんでしたが、晩年はガンで苦しみ、先に天国に召されていきました。

 この詩が収録された第一詩集『わが恵み汝に足れり』(アシュラム・センター)が発行されたのは、お母さんが天国に召される5日前の昭和50年(1975)2月、源三さんが38歳のときでした。残念ながらお母さんは源三さんの詩集を見ることなく、旅立っていかれたのでした。

こたつに入っている水野源三さん

水野源三詩集

水野源三さん 版画 

写真=こたつに入っている水野源三さん


黄色いバラ

沈黙の響き (その91)

「沈黙の響き(その91)」

 

「自分は役に立っている」という考えは危うい

 

 

 山口県で名高校校長と呼ばれ、退職後も全国に教職者研修に呼ばれている佐古利南(としなみ)先生も辻先生の詩に注目し、新たな観点から吟味されています。辻先生は晩年体調を崩して車イス生活となり、寝たきりとなって高齢者施設に移り、認知症も併発されました。それでも生きることに悲哀を感ぜず、ベッドの中で手を合わせて、すべてに感謝しておられました。佐古先生は辻先生の詩の次の部分に注目されました。

 

「自分は役に立っている」というその思いのなかに

ひょっとしたら、傲慢とまでいいませんが

何か悲しい人間の自信がひそんではいませんか

 

人は誰でもいつの日か、何もかも喪失して

人に迷惑をかけなければ

瞬時も生きてゆけないそんな日が必ずやってきます

 

この「役立ち思想」の延長線上でゆくと

いつかは誰でも生きることの価値を失い、生きる資格をなくします

老いるということ、病むということ、呆けることは

そういうことだったのですか

 

 佐古先生は平成28年(2016)7月、神奈川県の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で、19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った悲惨極まりない事件を採り上げ、事件の背後にあるのが、「役に立たず、社会の荷物になっている」という皮相な考えだと指摘しておられます。地元の神奈川新聞も、「この事件は派生的に『生きるに値しない命はあるのか』という根源的な問いを私たちに投げかけた」と指摘しています。辻先生はこの事件の20年前に「役立ち思想」の持つ危うさを警告しておられたのです。

 

 役立つことが善で、それ以外は悪で邪魔者というのではなく、〝いのち〟そのものが尊い。それは“いのち”が神仏のこの世への現われだから絶対的に尊いんだ――そんな辻先生の訴えが聞こえてくるようです。ここで論じてきた障がい者のケアの問題は、ただ単に社会福祉政策の問題ではなく、生命の根源に対する畏敬の問題だといえます。

 

≪障がい者への介護は生きとし生きるものへの感謝だ

私は障がい者支援センターあんしんを運営されてきた樋口会長のご家族がたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。

 

道を踏み外してしまった子どもたちの矯正教育に携わっておられた辻光文先生は、

「お役に立たなければ、生きている価値はありませんか?」

と、根源的な問いを投げかけ、子どもたちの魂を拝んでおられました。すると子どもたちのいのちが燦然(さんぜん)と輝きだし、素晴らしい成果が上がっていきました。

 

障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。そしてこれは日本文化の固有な形なのでした。改めて、障がい者のケアができることを感謝せずにはおれません。

 

私たちの周囲に目を凝らしてみると、いのち、いのち、いのちがふんだんに満ちあふれています。まるで“いのちの花園”のなかに生息しているようです。

小学生のころ、学校から連れられて観たドキュメンタリー映画に、『砂漠は生きている』というのがありました。水一滴もなくカラカラに干からびた死の世界の砂漠で生きのびているサボテンの開花を高速度カメラで映していて、子ども心にその美しさに酔いしれました。自分が住んでいる世界がそれほど美しい世界であるとはそれまで思いもしませんでした。

 

その美しい世界への恩返しの一つとして、障がい者へのケアがあると思います。私たちの世界はまだまだ“弱肉強食”の世界ですが、それは変わっていかなければなりません。その先鞭をつけてくれ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。誰一人として見捨てられない持続可能な社会づくりに私も参加できることを心から感謝します。

黄色いバラ

写真=一輪の花が宇宙を表している