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南米

沈黙の響き (その129)

「沈黙の響き(その129)」

アマゾンに聖ステパノ農場を拓いた

神渡良平

 

「昭和22年」(1947)の秋にエリザベス・サンダース・ホームがはじまってから、昭和55年(1980)の今日までの33年間は、私が生まれてからホームの仕事に従事するまでの、平和すぎるほど平坦な47年間の年月に学び得たものの、数倍、いや数百倍もの多くのものがあった」

 澤田美喜さんは感慨深く、『母と子の絆――エリザベス・サンダース・ホームの30年』(PHP研究所)にこう書いています。外交官夫人として働いた日々も充実していたでしょうが、エリザベス・サンダース・ホームの運営は苦難の連続だっただけに、果てしない恵みをいただいていたのです。

 

「以前の平和な生活の中で育ってきた私は、世の中の美しいことだけしか知らなかったのである。だが、そのあとの33年は、私にとっては思いもかけぬ大きな試練の連続であった。私は日本ばかりでなく、世界中を旅して歩いた。しかしその旅は、それ以前の気ままな旅とはまったくちがって、むずかしい目的をもったつらい旅ばかりであった」

 

 美喜さんはジョセフィン・ベーカーに連れられてパリの貧民街に足を踏み込み、そこで奉仕するジョセフィンを見て、とてつもなく啓発されました。芸能人として稼いだお金を、自分の出身母体である貧民街の救済に惜しげなく注いでいたのです。

だから外交官夫人として社交辞令の多い生活を送るよりも、誰かの実質的な手助けになる仕事をしたいと思ったのです。その結果、外交官夫人として夫を支えなければならない問題をどうするか、まだ子育てが終わっているわけではない自分自身の家庭をどうするかなど、解決しなければならない問題は多々ありました。

 

しかし、エリザベス・サンダース・ホームで混血孤児の養育を始めて、はるかに充実した生活になりました。前述の本には次のような一節が書かれています。

「昔の華やかな旅よりも、どんなに教えられ、得るものの多い人生の旅であったろう。ただひたすらに祈り、希望を失わないように努力する以外にない日々であった」

 

 さて、澤田美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームで育った混血孤児たちが、社会に出て、縮れ毛で肌が黒いだの、金髪で目が青いだのと差別されて難儀するよりも、建設的な生活が営める場所をつくるべく、ふさわしいところを探し始めました。

 

真っ先に候補に挙がったのはハワイでした。この島はありとあらゆる人種のるつぼであり、誰も肌の色など気にしておらず、のびのびと生活しています。だから最適な環境のように思えましたが、思わぬ障害がありました。

 

ハワイには厳とした移民法があって、旅行者として短期間過ごす以外は、割り当てられた移民枠に従うか、養子縁組してハワイに入国するほかには永住するすべがありません。日系人は厳しく制限されていました。ハワイは日本に近いのでとても便利ですが、諦めざるを得ませんでした。

 

 美喜さんの父久彌さんは51歳の若さで三菱を退いたあと、農場経営を志して東山(とうざん)農場を興し、岩手の小岩井農場、千葉の末広農場に加えて、ブラジル・サンパウロ州でも広大な土地を購入して農場経営をしていました。

 

 サンパウロ州の東山農場はコーヒー栽培と牧畜を主とし、農場を中心に、商事、銀行、鉱山、紡績、酒造、肥料などの分野にも進出し、多角的に発展していました。ブラジルはそもそも多様な人種が混ざった国なので、肌の色がみんな違うのはごく当たり前で、人種差別もありません。そのため、父の農場にエリザベス・サンダース・ホームの卒園生を送り込もうかと考えました。

 

 それに夫廉三さんが代理大使として赴任した国がブラジルの隣の国アルゼンチンだったので、美喜さんは何回か来たことがあり、愛着がありました。しかし東山農場を営む兄たちの意見は、混血遺児という未知数のものを入れて、せっかくそれまで築いてきた信用を崩されてしまってはかなわないというものでした。それで断念し、新天地は自分たちの手で開拓しようと思い直しました。

 

 そこで、美喜さんはサンパウロ州やその西部のパラナ州の日本人の入植地を見てまわりました。入植地は日本人移民の手によってどこもかしこも見事に開拓されていました。ベルオリゾンテとはポルトガル語で「美しき地平線」という意味ですが、大原始林の彼方の地平線に真っ赤な太陽が沈んでいく光景はまさに「美しき地平線」で、日本人移民たちはそんな夕日を眺めながら、明日に希望を懸けていたという思いが伝わってきます。

 

またエスペランザ(希望)という地名からは、必ず明るい未来が開けると「希望」を抱いて開拓を続けたのだろうなと連想できます。あちこちの農場を見てまわりながら、開拓者は原始林を一本一本伐採して切り開いた土地に限りない愛着を感じるものらしく、たとえ不作が続こうとも投げ出さず、そこに根を下ろして住みついて、ついに永住の地とするようです。

 

一方、移住者のなかには耕地を替えて、転々と移り住む人達もいました。彼らが土地に対する愛情が持てないのは、誰かが開拓した既製の土地を買って移り住んだからで、何かトラブルが生じると何の未練もなくさらりと売り払い、次の出来合いの土地を求めて移り住むのではないかと思われました。そんな人達は転々とするうちに、行方がわからなくなってしまうのです。だから「石にかじりついてでもそこで成功する」という不撓不屈の精神がなければ、開拓は成功しないと思いました。

 

それぞれの土地で人々から開拓当時の話を聞いて、美喜さんはこの上もない教育を受けました。美喜さんは『母と子の絆』に、

「成功するために必要なものは、今までは地の利とか、人の和とか思っていたけれど、私はさらに土地に愛情を持つということをつけ加えることができた」

と書いています。移住先がハワイやアメリカが駄目ならブラジルにと、グローバルと発想するあたりはさすがに岩崎彌太郎の孫娘です。発想のスケールが常人と違います。アマゾン定着が計画とおりに成功するか、闘いは正念場を迎えました。

南米

ブラジル国旗

写真=澤田美喜さんが希望を託した南米のブラジル


立花先生

沈黙の響き (その128)

「沈黙の響き(その128)」

魂を磨かずして歴史の開拓者になることはできない!

神渡良平

 

 私は毎週グループLINEに「沈黙の響き」をアップしており、もう2年が経ちました。その間、投稿してくださる方々やお電話に励まされ、続けることができました。投稿されたメッセージを読んだり、電話の声をお聞きして、「ああ、この連載はこれらの方々との共同で執筆できているんだな」と思っています。

 

 先日、かねがね尊敬している立花之則(ゆきのり)先生からお電話を頂戴し、「沈黙の響き」(その127)に書いた沖永良部島(おきのえらぶじま)に島流しされ、幽閉されていた西郷隆盛の話を読んだ感想をうかがいました。幽閉されていた西郷さんが置かれた状況は、脳出血で倒れて右半身が麻痺し、しかも言語中枢がやられて、アーアー・ウーウーとしか言えない状態に陥った立花先生自身の状況に極めて似通っているというのです。

 

立花先生の声は話ができない苦境があったとは思えないほど明瞭でした。

「私は4年前、脳出血で倒れました。運悪く発見が遅れたため致命傷となり、3か月ほど絶望状態が続きました。4か月経ってやっと蘇生し、リハビリが始まりましたが、やれどもやれども麻痺した手足は一向に回復の兆しは見えませんでした。

 

でもこのままでは終われないと、歯を食いしばってリハビリに努めました。通常の言語リハビリだけでは効果があがらないので、カラオケで歌を歌うことを始め、来る日も来る日も大声で好きな歌を歌い続けました。これが功を奏してろれつが回るようになり、とうとう退院に漕ぎつけました。その成果が医師や他の患者をビックリさせ、症例として学会でも発表されました。

 

私自身、そういう辛い経験をしたので、西郷さんは幽閉されたからこそ、内なる声に耳を澄まし、天に導かれて大きく脱皮して新境地をつかんだということがよくわかります。西郷さんがもしあのまま権謀術数の多い諸藩との折衝に明け暮れていたら、裏表のある政治的人間にはなったとしても、真に人々を糾合させる明治維新という青写真は描けなかったはずです」

なるほど、立花先生の指摘は事の本質を衝いていました。

 

◇日本の復興を目指して、まだま村を立ち上げる

 立花先生は北大阪の茨木市の郊外の山里で、葦葺(あしぶ)き屋根の縄文竪穴式の家「まだま村」を営み、そこで研修会を催して多くの人を啓発してこられました。まだま村は交通の不便な山里にありますが、ここは師と仰ぐ松井浄蓮(まつい・じょうれん)に啓発されて開村したところです。

 

松井先生とは終戦後、滋賀の比叡山麓に田畑を開墾され、終生一百姓として自給自足を貫き、生命を大切にする生き方と農の営みを実践された人です。下坐行の実践者である一燈園の西田天香さんとも親交があり、90歳を過ぎてもなお矍鑠(かくしゃく)として農業に精出しておられ、多く人々が集って学んでいました。その一人が青年のころの立花先生でした。

「まだま村開村の立役者はなんといっても松井先生です。陶芸家の河井寛次郎先生は松井先生を“大地を造形する人”として尊敬されていました」

 

ひょっとすると松井先生が率先して立花先生たちと切り拓かれたという竹林は、現在まだま村が建っている場所ですかと問うと、その通りですとの返事。

「今では想像もつきませんが、元々は昼でもなお暗い鬱蒼と茂った竹林でした。長年放置してあったので、数千本の竹が手の付けられないほどビッシリと生えていたのです。

 

日本人の心を喚起するような縄文竪穴式の葦葺きの家を建てたいという私の、まだ海のものとも山のものとも解らない雲をつかむような話を聞いて、松井先生は今すぐやろうと行動を起こし、先頭に立って竹切りをされました。10人ばかりの友人知人とともに数千本の竹を切って整地しました。こうして竹林がパーっと明るくなり、まだま村の計画は一気に加速して具体化していきました」

 

まだま村とは不思議な名称ですねと問うと、その由来を説明されました。

「バブルが頂点に達した平成元年(1989)ごろのことです。松井先生や坂村真民先生など、私の3人の師が異口同音にこのままだと、モノだけ栄えて、心が滅びる時代がきっと来ると嘆いておられました。私はそれに触発され、“美しい日本の心”を失ってはならないという意気込みで、全財産を投じて山の中に縄文竪穴式のまだま精舎(しょうじゃ)を建てました。心を取り戻す勉強会の根拠地にしようと思ったのです。

開村に当たって、救世教の紛争を調停された松本明重(あけしげ)先生が、

 

濁りたる世人浄めて花咲かす真魂(まだま)の人は敷島の花

 

という激励の歌をくださいました。自分のことを“真魂”と言うのはおこがましかったので、真を磨に変え、“磨魂(まだま)”魂を磨く、つまり汚れた魂を磨いて、真魂に近づく場所にしようと、人生の宿願としました」

 

 葦葺きのまだま精舎は長年茶房としてもみなさんに親しまれました。ハイキングに来た人たちが店に立ち寄り、縦横に組まれた太い梁を見上げ、囲炉裏の火にあたって、心が癒されて帰っていかれました。しかし残念ながら、茶房はコロナ禍のため閉店しなければならなくなりました。

 

 立花先生はいま空円光と名乗っておられます。その由来を聞くと、やはり天からの指し図でした。

45歳ごろ犬を散歩させていると、天から『空ハ円ナリ光ナリ』という言霊が降りてきました。私はそれが自分の目指すべき理想だと思い、80歳になったら生前戒名として空円光を名乗ろうと思いました。しかしその歳まで待てず、100回連続講演を達成したのを期に空円光と名乗るようになりました」

 

◇魂磨きこそが人生の原点

「さまざまな活動をして30年が経ち、初心に帰ろうと思っていた矢先、予想もしなかった出来事が襲いました」

 先に述べたように脳出血で倒れ、重篤な状態に陥ったのです。

「幸いに命は助かったものの、右半身麻痺という大きなハンディを背負うことになりました。右手はブラブラの状態で物がつかめません。すっかり落ち込んでしまいました。

 

 ところが辛くて悲しくて先が見えない時期を過ごして、ようやく物が見えるようになりました。私はつくづく傲慢だったと気づきました。人の痛みがまるでわかっていませんでした。至らなかったのは自分でした。一番反省しなければいけないのは私なのに、人に向かって魂を磨こうなどと説いていたのです。

 

右半身不随になったのは“意味”があったのです。天の恩寵以外の何物でもありません。懺悔することの多い日々ですが、それとともに極めて愉快で、何でも感謝して受けられるようになりました。小林秀雄は『空は実は満ち足りているのだ』と言いましたが、まったくそのとおり、満たされているのです。この闘病生活でようやく空円光という名にふさわしい心境が開けてきました」

 

立花先生の話を聞きながら、私は立花先生の恩師松井浄蓮先生の不思議な書名がついている『終わりより始まる』(法蔵館)を連想していました。立花先生は脳出血で倒れ、言語能力も失い、もう駄目だ、俺の人生は終わったと悲嘆に暮れました。しかし闘病生活を経て復活してみると、新たな心境が開けていました。松井先生がおっしゃるとおり、「終わりは終わりではなく、新たな始まりなんだ」でした。

これはもう歓喜以外のなにものでもありません。失われたものはあったけれども、それに倍するものが与えられたのです。これからは霊命を拝し、ご恩に感し、報徳に努めるばかりだと思いました。

 

 立花先生が闘病生活は天からいただいた恩寵で、“意味”があったと気づいたそうです。だから西郷さんが幽閉されていたときの苦衷がびんびん響くのです。

「西郷さんはすべての自由を剝奪されて獄中で呻吟しましたが、それが佐藤一斎の『言志四録』などに導かれて、コペルニクス的転換が起きました。もはや薩摩藩だとか倒幕勢力だとかという狭い意識を超えて、侵略の意図が濃厚な欧米列強を抑えて日本を真に独立国家として新生させなければならないという意識に変わっていかれました。

 

 もし西郷さんが旧態然として薩摩藩代表の意識のままだったら、江戸城無血開城はできなかったし、江戸は戦火に包まれて100万の市民が焼け出されたに違いありません。獄中で西郷さんが新生したから、あの危機を乗り越えて大同団結することができ、新生日本が生まれたのでした。

 

今まさに第三次世界大戦が噂されていますが、現代文明が終焉しつつあると言えます。文明の発展神話にしがみつくことなく、原点に返っていのちをおろがみ、自然に額づかねばならないのではないでしょうか。自然に帰れ、人間に帰れと魂から叫びたくなります」

 

立花先生は「逆境は人間の魂を磨いてくれる。逆境を経てこそ、歴史を切り拓いていける人格は形成されていくのだ」と、“魂を磨くこと”を人生の中核に置いたことは間違っていなかったと確信した次第でした。

立花先生

まだま村全景

まだま村の集まり

写真=➀まだま村での集いを再開した空円光立花之則先生 ②縄文の昔を髣髴させる葦葺きのまだま村 ③まだま村でのある日の集まり


西郷隆盛2

沈黙の響き (その127)

「沈黙の響き(その127)」

西郷隆盛の揺籃となった沖永良部島の牢獄

神渡良平

 

 

 1029日、岐阜県恵那市で、徳川幕府最高の教育機関「昌平坂学問所」で教鞭を執っていた儒学者佐藤一斎の生誕250年を記念して、第26回言志祭が催されました。その席上、「日本の文化と佐藤一斎」と題して講演しました。会場には湯島の昌平坂学問所から移し植えられた櫂(かい)の木が真っ赤に色づき、花を添えていました。

 

 講演では数年前読者40数名で、西郷隆盛が薩摩藩の国主島津久光にうとんぜられて、島流しされていた南溟の孤島・沖永良部島(おきのえらぶじま)を訪ね、西郷が幽閉されていた牢獄の周りに座って、瞑想したことを話しました。

すると講演を聴いてくださったグループが講演に触発されて、来年の研修はぜひ沖永良部島に行きたいとおっしゃるので、主催者に詳細を書いた次のような手紙を書きました。

 

〈薩摩藩は島津斉彬(なりあきら)死去後、忠義が藩主となりました。しかし久光が藩主の実父であることから国父と称して実権を握りました。久光は、実力は比べるもなかった異母兄斉彬に代わって、明治維新の旗頭になれる番が回ってきたと喜びました。でも久光の力量を知っている西郷は久光を、

「自分の力量をわきまえない、まったくの田舎侍」

と揶揄していました。

 

西郷が久光を評価しないので、久光は当然西郷を嫌い、左遷して島流しにしました。西郷は、日本を虎視眈々と狙っていた欧米列強を抑えて、維新政府を樹立しなければならない大詰めを迎えていたので、怒り心頭に達しました。

 

 鹿児島から島流しされるとき、獄中で読書しようと、柳ごおり四つ分の書物を持っていきましたが、とてもとても読書できる心境ではありませんでした。書物を開いて読んでいるようでも、心は上の空でした。そんなときだったから『言志耋録』(げんしてつろく)133条は身に沁みたはずです。一斎は、

「順境、逆境は他者に起因するのではなく、お前自身の心境から来るんだ」

と叱りました。これにはおそらく最初は反発したでしょう。しかし、考えれば考えるほど、西郷の心の嵐は久光のせいではなく、自分自身に原因があると思わざるを得ませんでした。そうなると一斎が『言志耋録』3条で強調したように、

「経書を読むは即ち我が心を読むなり。認めて外物となすことなかれ。我が心を読むは即ち天を読むなり。認めて人心と做すことなかれ」

が身に沁みたに違いありません。天という概念は単なる観念的な絵空事ではなく、初めて対話すべき相手として浮かび上がってきたのです。これは大きな覚醒でした。

 

 私は西郷が沖永良部島の牢獄で過ごした日々、彼は久光憎しの感情から解放され、薩摩藩という意識からも脱却し、真に新生日本という意識に高まっていったように思います。薩摩藩だ、維新勢力だ、倒幕勢力だという意識を超えて、維新政府を確立しなければならないという思いに至ったのです。

 

 そのことは江戸幕府を代表して、江戸城無血開城について西郷と折衝した勝海舟が、西郷は敵だ、味方だという意識を超えていたので、西郷と一緒になって新生日本を作り上げようという気になったと『氷川清話』(講談社学術文庫)で述べています。

「西郷に及ぶことができないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。俺だって事に処して、多少の策謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠は、俺をして相欺くことができなかった」

 

「このときに際して、小籌浅略(しょうちゅうせんりゃく))を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、俺も至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しも、あのとおり、立ち話の間にすんだのさ。西郷は今言うたとおりに実に漠然たる男だったが、大久保はこれに反して実に截然(せつぜん)としていたよ」(※截然=物の区別がはっきりしていること。明瞭や明確に近い)

 

「官軍が江戸城に入ってから、市中の取り締まりがはなはだ面倒になってきた。幕府は倒れたが、新政府はまだ敷かれていないから、ちょうど無政府の姿になっていたのさ。しかるに大量の西郷は、意外にも、意外にも、この難局を俺の肩に投げかけておいて、行ってしまった。

『どうかよろしくお頼み申します。後の処置は、勝さんが何とかなさるだろう』

と言って江戸を去ってしまった。この漠然たる『だろう』には俺も閉口したよ。

 これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだろうに、さりとてあまりにも漠然ではないか。しかし考えてみると、西郷の天分の極めて高い理由は、実はここにあるのだよ」

 

 あの時期、誰かが敵だ、味方だという意識を超えていなければ、新生日本など生まれようがなかったのです。それだけに、西郷の成長が日本を窮地で救ったと言えます。

 私はあの沖永良部島の牢獄で西郷が、

「内なる耳を澄まし、天の声に耳を傾けたからこそ、藩の意識を脱却ができた」

と思っております。狭い牢獄ですが、母親の胎内のような役割を果たしたのです。

 

それに『言志晩録』38条の「宇宙内のことは自分の分内のこと」と受け止めたという記述は西郷には極めて啓発的だったと思われます。

「象山の『宇宙内の事は、皆己れ分内の事』とは、これは男子担当の志かくの如きをいう」

(陸象山は「天地間の事は皆自分の中の事、自分の中の事は皆天地間の事」といったが、これは大丈夫たる者はいかなることもこの心的態度で臨むべきだと思う)

 

 西郷は獄中で一斎の個人指導を受けていたとすら言えます。この条は『西郷南洲手抄言志録』にも収録され、私学校の生徒たちに講義するとき使っているから、西郷は余程感銘を受けた一節だと思います。

 あれこれ考えると、明治維新という革命の揺籃は沖永良部島の牢獄だったということができるのではないでしょうか〉

 佐藤一斎は遠い過去の偉人ではありません。彼の透徹した思想が現代のリーダーを導いているのです。

西郷隆盛2

写真=『言志四録』から101条を抜き書きして『手抄言志録』を編んだ西郷隆盛


瀬戸山雅代さんと大貴ちゃん

沈黙の響き (その126)

「沈黙の響き(その126)」

人生は生きるに値する! と訴えかける絵を描きたい

神渡良平

 

 いま私はこの「沈黙の響き」の連載で、エリザベス・サンダース・ホームで戦争孤児たちを育てた澤田美喜さんのことを書いています。母と子の物語は人間の永遠のテーマですが、それについて考えさせられるメールを拝見しました。今週はそれをみなさんに公開して、課題を深めていこうと思います。

 

◇瀬戸山家の納骨式

1024日、東京都世田谷区奥沢にある浄土宗の名刹淨真寺で、横浜()(すい)会の会長をされている瀬戸山秀樹さんの奥さま雅代さんの13回忌を記念して、新しく建てられたお墓の納骨式が行われました。

 

30年前、私が横浜志帥会という勉強会を始めたとき、最初のころから熱心に参加されていたのが瀬戸山秀樹、雅代さん夫妻でした。毎月の例会に雅代さんは息子の(だい)()君を連れて参加され、私たちが勉強している間、大貴君は部屋の隅でお絵かきなどをしていました。その後、雅代さんは癌を患い、7年間の闘病の末に亡くなりました。納骨式には従弟の濵田総一郎ご夫妻や親戚一同が集まり、私も参席しました。

 

お墓に奥さまの遺骨を納める前、大貴君が母上の骨壺から、一つひとつの遺骨を手のひらに乗せて語りかけ、泣いていた姿がとても印象的でした。そばで見ていて、息子にとって母親の存在はかくも大きいのかと、胸が締めつけられる思いでした。

 

その夜、西八王子の自宅に帰った大貴君から、父親の秀樹さんにメールが届きました。それを読ませていただいたのですが、前日の納骨式で母親を偲んで涙を流す大貴君を見ていただけに、そのメールは心を打ちました。秀樹さんと大貴君の許可を得て、みなさんとシェアしたいと思います。

 

◇大貴君から父親へのメール

〈父さんも納骨式でお疲れ様でした。とてもいい納骨式でしたね。ぼくは西八王子に越してきてから高尾山が近くなったため、天気がよいときは高尾山に登ります。そこには人の手が加えられていない美しい自然があり、どうしてこんなに美しいのだろうと味わいながら登っていると、白い大きな鳥の死骸を見つけました。

 

その死骸を見詰めていると不思議なことに気がつきました。木は朽ち死骸は腐るものですが、そこには生の営みがあったから美しいのではないかと思ったのです。

 

ぼくは母さんの7年にも及ぶ長い闘病生活に付き合い、ゆっくりと朽ちて行くさまを見たからなのか、多くのことを引きずるようになりました。朝起きるとき溜め息を吐くように、「今日もどうせ生きるのだ……」とつぶやくようになっていたのです。

 

ところが宇宙が営んでいる美しさに気がついたとき、母さんはその美しさに吸収されただけなのだと思いました。するとぼくも美しい朝に目覚めたことに気がつき、感謝して起きることができるようになったのです。

 

昨日、瀬戸山家のお墓に母さんの骨を納骨する前、骨壺からいくつかの骨を取り出しました。そのとき骨がすれ合う音が海の砂や貝の音に似ているなと感じ、改めて母さんは宇宙の営みに(かえ)っていっただけなのだと思いました。

 

父さんが母さんの骨を分骨して持ち帰るといいよと言ってくれましたが、持ち帰るのはやめました。というのは持ち帰って何をすべきなのかよくわからなかったのと、母さんがよく言っていたヘルマン・ヘッセの次の言葉がよぎったからです。

ぼくはなぜだか友人から悩みを相談されることがよくあります。ある友人が泣きながら、「なぜこんなにも生き辛いのだろう……」と訴えたことがありました。そのときどんな言葉をかけようかなと迷いました。今の時代は若者が大切なことを忘れてしまう時代です。次の文章は母さんが残してくれたヘルマン・ヘッセのもので、ぼくが一番好きなもので、そこに回答がひそんでいるように思います。

 

人間の文化は動物的な本能を精神的なものに純化することによって、また恥を知ることによって、あるいは想像力によって、より高いものになっていく。

すべての生の讃美者たちも、やはり死なざるを得ないのだが、人生は生きるに値するというのが、あらゆる芸術の最終的な内容であり、慰めである。

愛は憎しみより高く、理解は怒りより高く、平和は戦争より気高いのだ。

 

ヘルマン・ヘッセは高らかに「人生は生きるに値するというのが、あらゆる芸術の最終的な内容であり、慰めである」と歌っていますが、ぼくも友達に同じ言葉を言ってやりたいと思いました。ぼくの作品がどれだけ人の目に止まり、評価されるか、わかりませんが、ぼくはこの世界の美しさと、その中で生きる喜びを伝えるために描いていこうと思っています〉

 

大貴君は京都芸術大学を卒業し、いま絵を描いていますが、絵に「人生は生きるに値する」という思いを表現しようとしていたのです。絵描きは自分の絵が評価され、売れるとは限らないので、“清貧に甘んじる覚悟”をしなければ、なかなかできることではありません。秀樹さんは大貴君からのメールにその覚悟を読み取り、いたく感じ入りました。

 

◇父親からの返事

 秀樹さんは大貴君が、雅代さんが聞いていた録音テープや読書内容を聞いたりしているので、母親の価値観が明らかに息子の感性を育んでいると感じ、うれしく思いました。そこで感じたままを返信しました。

 

〈メールをありがとう。君には教えられることばかりだ。深く考えていることにとても感動した。君の目を見ていると、白隠禅師のこんな詩を思い出すよ。

 

君、看よ、双眼の色

語らざれば

憂いなきに似たり

 

白隠禅師は、「見てごらん、あの澄んだ眼の色を。何も語らなければわからないが、深い苦悩や苦しみを超えると、人はあんなに澄んだ美しい目の色になるのだ。苦悩が人間を立派に美しくする」と言おうとしているのだと思う。

 

大貴はその若さゆえに、また志があるがゆえに、自己実現に苦しんでいる。今まさにその道中にあると思う。私や母さんは今の君と同じように、いかに生きるか、何を成すかで苦しみ悩んだ時期があった。君はその上を行っており、既に親父を超えている。

大丈夫。必ず道は開ける。頑張れ〉

 

人生は父と子、母と子の伴奏によって形成されるものです。形ができ上るまでの奮闘が続きます。それが成功するよう、ただただ祈るばかりです。

 

瀬戸山雅代さんと大貴ちゃん

瀬戸山大貴さん

瀬戸山さんのご家族

草花の絵

写真=➀雅代さんと大貴ちゃん ②大貴君 ③瀬戸山家の3人 ④大貴君が新しいお墓のために描いた草花の絵