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神戸淡路大震災1 

沈黙の響き (その97)

「沈黙の響き(その97)」

前田敏統さんにとってのボランティア元年

神渡良平

「沈黙の響き」(その53)に、山口市の友人前田敏統(としのり)さんがご自分のニュースレター「養黙」に書かれた「セキレイが示した母性本能」を転載したところ、多大な反響がありました。

しかも臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長がラジオ番組で前田さんとセキレイの母鳥の話を採り上げて、華厳経の教えにからめて説いてくださったので、前田さんのことを知らない人はないようになりました。

その前田さんが「養黙」3月号に掲載された文章が心に響くものがあったので、許可を得て転載しました。

「平成7年(1995117日、阪神淡路大震災が起きたとき、私は仕事を辞めていたので、復旧に駆けつけることができましたが、これが私の生き方を180度変えることになろうとは思いもしませんでした。

 ある朝、テレビの報道をぼんやり眺めていると、焼け跡で呆然とたたずむ老人に、リポーターが訊ねていました。

『どうしたんですか? ボーっとしていて』

 すると、老人は張り裂けそうな思いで、

『わしは女房を見殺しにしてもうた!』

 と答え、泣き崩れました。

『わしら夫婦は2人とも潰れた家の下敷きになった。わしは何とか這いだし、家内を助け出そうとしたが、崩れた家の下敷きになっていて、引きずり出すことができない。まわりの人たちや消防隊も懸命に努力したが、崩れ落ちた材木はびくともしなかった。消防隊は救助可能な人から先に助け出すしかないので、他の人の救助に取り組んだ』

 消防隊が去ったあと、老人は血だらけの手で奥さんを救い出そうとしましたが、どうにもなりませんでした。そのうちに燃え盛る火の手が迫り、熱さが背中を焦がし始めると、家内が叫びました。

『アンタ! ありがとう。私はもういいから、アンタは早く逃げて!』

 わしは目の前で家内が焼け死ぬのを、泣き叫びながら、見守るしかなかったんや』

老人はそんなやるせない話をテレビのリポーターにして、大粒の涙をこぼした……。

 その報道を見ていて、私は自分を恥じました。いや自分をさげすみさえしました。

 私には家も車も無傷のままあるし、かたわらには元気な妻もいる。なのに私はぬくぬくと惰眠をむさぼっているではないか――。

と、過去のことがさまざま心をよぎります。仕事上の不満からかっとなって会社を辞めてしまい、収入が無くなって家内に辛い思いをさせてしまいました。ああ、何と情けないことか――

(よし、復興の手伝いに行こう。あの老人のように、後悔しちゃいけない。行くしかない! 行くべきだ!)

 と決心しました。しかし有り金だけでは足りないので、わずかな貯金まで下ろし、取り急ぎ電車に飛び乗って神戸に向かいました。でも、電車の中で私は家内に詫びました。なけなしのカネを持ってきてしまい、家内にはまた申し訳ないことをしてしまった――。

紙面が足りないので詳しいことは書けませんが、神戸淡路大震災の復興で汗を流したことは、私ども夫婦2人のその後の生き方を変えた出来事となりました。

 その後、中越地震その他、いろいろと大地震があり、その都度自分にできる範囲で協力してきました。神戸には結局10年の援助を続けてきました。その力はとても小さいものでしたが、精いっぱいのことをさせてもらいました。

 阪神淡路大震災は<ボランティア元年>と呼ばれ、後の人々に引き継がれていき、東北大震災でも生き続け、多くの人が復興に駆けつけ、汗を流しました。貧乏人の私ができることは、ただ汗を流すことしかありません。でもその汗をありがたいと思ってくださる方がいるかぎり、私は現場の復旧で汗を流すつもりです」

 前田さんはニュースレターをそう締めくくっておられました。

 読み終わった私の心に、さわやかな春風が吹いてきました。リビングルームから窓越しに、黄色いレンギョウと真っ白なユキヤナギが咲き誇っているのが見えます。そのユキヤナギの花が春爛漫の風情をいっそう引き立て、前田さん夫妻が被災地で流される汗を称えているようでした。

神戸淡路大震災1 

神戸淡路大震災3 

パンジー

 写真=阪神淡路大震災とパンジー


戦場のピアニスト

沈黙の響き (その96)

「沈黙の響き(96)」

ウクライナ危機と「戦場のピアニスト」

神渡良平

 

 

 この現代に、軍事大国ロシアが意に従わない弱小国ウクライナに有無を言わせず攻め込み、国土を蹂躙するというという信じられない蛮行が行われています。テレビでもSNSでも連日悲惨な状況が報道されており、怒りを覚えています。

プーチン大統領は核戦争も辞さないと脅しをし、「反抗できるものならやってみろ!」と言わんばかりです。私はロシアの強権的主張が世界の現行慣習を蹂躙するのを見て、

「これが、力が支配している国際政治の現実なのか!」

 と唖然とし、改めて毅然たる態度を貫かなければならないと覚悟を決めました。

 

 そんな中、2002年のカンヌ映画祭でパルムドール賞(最優秀作品賞)を受賞し、一躍世界の注目を浴びた『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督)を観ました。この映画は実在したユダヤ系ポーランド人の著名ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を映像化したものです。『戦場のピアニスト』はアメリカのアカデミー賞では7部門にノミネートされ、うち監督賞、脚色賞、主演男優賞の3部門で受賞しました。

 

 この映画を観て、ロシアに蹂躙されて廃墟と化したウクライナが、77年前、ナチス・ドイツに侵略されたポーランドとまるで同じだったと知りました。

 

映画はポーランドのワルシャワで生れ育ったユダヤ人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが首都ワルシャワにあるラジオ局のスタジオで、ショパンのノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)を弾いているところから始まります。楽想指示に「レント・コン・グラン・エクプレシオーネ」(遅く、とても情感豊かに)と書かれているように、静謐(せいひつ)な主旋律を抒情的な雰囲気をかもし出すアルペジオ(分散和音)が飾って、静かな夜のもの思いにいざなっていきます。

 

ところが突然ラジオ局がドイツ空軍によって爆撃され、録音が中断されました。19399月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発したのです。ワルシャワはドイツ軍に占領され、ユダヤ人はダビデの星が印刷された腕章をつけることが義務付けられ、喫茶店や公園への立ち入りも制限され、ナチス親衛隊の暴力にさらされました。

 

1940年後半には、ナチス・ドイツはユダヤ人問題の「最終的解決」のためと称して、ヨーロッパ各地から列車でポーランドにあるアウシュビッツやトレブリンカ、マイダネクの絶滅収容所に運び、ガス室で殺戮し始めたのです。シュピルマンも絶滅収容所行きの家畜用列車に乗せられるところでしたが、友人の機転で救われました。

 

家族から引き離され、一人とり残されたシュピルマンは、労働力として残された成人男性たちに混じり、強制労働を課せられました。慣れない肉体労働耐え切れず倒れましたが、仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回され、またしても過労死をまぬがれました。シュピルマンは監視の目の盲点を突いて、ドイツ当局が利用する病院や警察署の向かいにある隠れ家にひそみました。

 

ある日、廃墟の中に立つ一軒家で食べ物をあさっていると、ドイツ軍将校と鉢合わせしてしまいました。将校は彼の素性を尋問し、彼がユダヤ人でピアニストであることがわかりました。

 

そこで1階の居間に残されていたピアノを弾いてみるよう強要しました。シュピルマンは躊躇しながらピアノの前に座り、ショパンのバラード第1番ト短調を弾き始めました。瞑想するような静かな旋律が流れ出しました。演奏が終われば、射殺されることは明白です。シュピルマンは演奏するに連れて我れを忘れ、夢中になって鍵盤を叩きました。ピアノ曲は窓から廃墟と化した街に流れていきました。

 

その演奏に心を動かされたドイツ人将校は、非凡な才能を持ったピアニストを助けたいと思いました。ショパンの名曲がシュピルマンの命を救ったのです。将校が部屋を去ったあと、シュピルマンはピアノに倒れ伏して泣き崩れました。

 

件のドイツ人将校は周囲の目を盗んで屋根裏部屋に食料を差し入れたとき、そっと耳打ちしました。「ソ連軍の砲撃が迫っている。ドイツ軍が撤退し始めた。あと10日もすればワルシャワは解放されるはずだ」。

 

しばらくすると1台のトラックが拡声器でポーランド国歌を放送し、ついにポーランドは解放されました。6年間に及んだ逃亡生活がようやく終わったのです。ワルシャワ・ゲットーに押し込められたユダヤ人は36万人でしたが、解放されたときはわずかに20人たらずになっていました。

 

 戦後、シュピルマンはピアニストとして活動を再開し、国際的バイオリン奏者ブロニスワフ・ギンペルとのヂュオで、世界各地で2500回を超えるコンサートを開催しました。数多く作曲も手がけ、彼が書いた多くの歌は人気スタンダード・ナンバーになりました。1964年にはポーランド作曲家アカデミーの会員に選出され、名声の内に20007月、88歳で亡くなりました。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は私たちを暗澹(あんたん)たる気持ちにします。しかし、『戦場のピアニスト』の随所に流れるショパンの静謐なノクターン第20番嬰ハ短調や、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」などは私たちの心を深いところで癒してくれました。ポランスキー監督はおぞましい現実の中になお“救い”があることを示し、高らかな人間讃歌を歌いあげました。

戦場のピアニスト

ウクライナの惨劇

写真=『戦場のピアニスト』の主人公シュピルマン。ウクライナの惨劇。


2022年4月の予定

日時 演題 会場 主催団体 連絡先担当者

4/27(水)
19:00~21:00

 

天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想

エルガーラ7階 中ホール
福岡市中央区天神1-4-2
TEL 092-711-5017
・開催形式:対面とオンラインのハイブリッド
詳細はコチラ

一般社団法人
福岡中小企業
経営者協会

地域人材育成員会 事務局 鈴木未来(すずきみき)
MAIL suzuki-m@chukeikyo.com
TEL 092-753-8877

講演会「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」のご案内

4月27日(水)に福岡で開催される講演会に登壇します。

オンライン(Zoom)での参加が可能ですので、遠方の皆様もぜひご視聴いただければ幸いです。

 


【ご案内_神渡良平先生講演会】

 

【地域人材育成講演会「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」のご案内】

 

◎日時:2022年4月27日(水)19時00分~21時00分

 19:00~開会 19:10~講演会 20:40~質疑応答 21:00閉会(予定)

◎演題:「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」

◎開催形式:対面とオンラインのハイブリッド

◎講演会場(対面):エルガーラ7階 中ホール

◎住所:福岡市中央区天神1-4-2(TEL:092-711-5017)

◎オンライン配信方法:Zoom

◎会費:3,000円

※対面・オンライン共に参加費は一律です。

 

◆申込期限:2022年4月13日(水)まで

◆申込方法:下記URLよりGoogleフォームにてお申し込みください。

 

▽Googleフォーム「4月27日(水)開催【地域人材育成講演会】申込フォーム」

 https://forms.gle/jTh3WdqsptJhwkEo6

 

〈お問い合わせ〉

◎主催:一般社団法人福岡中小企業経営者協会

◎担当:地域人材育成員会 事務局 鈴木未来(すずきみき)

◎E-mail:suzuki-m@chukeikyo.com

◎TEL:092-753-8877

 

※ ご案内のPDFはコチラ → 【ご案内_地域人材育成講演会「天に預ける」】


いのちをありがとう

沈黙の響き (その95)

「沈黙の響き」(その95

 〝いのちの讃歌〟を歌おう!

 

 

“いのち”はどこから来るのでしょうか?

“いのち”は宇宙からやってきます。別な言い方をすると、人智を超えたところからやってきます。その“いのち”は心地よいと活性化し、輝きだします。

 

人は、人から愛され守られているという実感があると、心が安らかになるものです。もしそこに暗い表情の人があったとしても、寄り添ってお世話したら、その人はいつしか生き生きとなり、その人の個性が花開いていきます。草花が陽の光を浴びると輝きだすのと同じです。

 

私はしばしば「宗教的な心」に言及しています。前回まで2回にわたって紹介した瞬(まばた)きの詩人水野源三さんはキリスト教徒なので、信仰上のことも取り上げました。しかし、それはキリスト教が仏教その他に比べて一等優れているという意味ではなく、神秘的なものに向かい合ったとき、自ずから湧き上がってくる“畏敬”の念を大切にするという意味で採り上げました。

 

畏敬の念を持つと、人智を超えたものに“ゆだねる”という心境になります。するといま取り組んでいるものも「天と自分との共同作業」で成就されるという強い信念が生まれます。この宗教的な心があらゆることの遂行に必要だと思うのです。古来からしばしば、

 

人事を尽くして天命を俟(ま)つ

 

という心境が取りざたされてきました。人間の側のことは死力を尽くし、やるだけのことをやり終えると、あとはさばさばし、人智も自然をも超えた何か神秘的な力により頼む――他力にゆだねるという心境が訪れると言います。私はこの心境をさして、「宗教的な心」と言っています。

 

私はこの半年間、新潟県十日町市でNPO法人支援センターあんしんを運営しておられる樋口功会長とそのご家族のことを書いてきましたが、それをPHP研究所が『いのちを拝む――雪国で障がい者支援の花が咲いた』として出版してくださることになりました。

 

「あんしん」の機関車として20年間がんばってこられた樋口さんのご家族のことを執筆していてつくづく感じたのが、人智を超えた不思議なものに対する畏敬の念を抱いておられることでした。障がい者たちの“いのち”に畏敬の念を持っておられるから、そこから“いのちの讃歌”が湧き上がってくるのです。「あんしん」に流れている絶対的に肯定的な雰囲気はそこに依拠しています。

 

障がいを持った人が表情を失い、暗い陰が射しておられるとすると、こんな申し訳ないことはありません。障がい者たちにご自分の“いのち”を発露させ、輝いてくださるために、何かのお役に立ちたい――障がい者を支える「あんしん」の職員の間にあるのはそんな気持ちです。

 

私は樋口さんたちがたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。

 

それに先鞭をつけ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。そして誰一人として見捨てられることがない持続可能な社会づくりに、私も参加できることを心から感謝します。

いのちをありがとう

写真=みずみずしい“いのち”があふれている草花


ありし日の誠さんご夫妻 

沈黙の響き (その94)

「沈黙の響き(94)」

目を覚まさせた奥さまの本音の折檻

 

 

 愛媛県大洲市で「まことや」というパン屋を営んでいた次家誠さんが事故で倒れたのは、平成12年(2000118日の夜8時半でした。パン工場で仕事をしていた誠さんが、立ちくらみがして前に倒れ、ケーキミキサーでしたたかに前頭部を打ち、反動で後ろに倒れて首の後部を強打し、血まみれになって倒れてしまいました。

 

 同じパン工場で仕事をしていた息子さんの誠一さんは、人が倒れる物音を聞き、駆けつけてみると、父親が倒れていました。これはいけないと救急車を呼び、市立大洲病院に運びました。MRI(核磁気共鳴画像)検査で精密検査した結果、頚椎損傷3番、4番を損傷しており、首を固定してICU(集中治療室)に運ばれました。幸いにして命は助かったものの、知覚神経も運動神経も麻痺して寝たきりになりました。

 

「まことや」を引き継いだ誠一さんは店を閉め、明日の仕込みを終えて病院にやってくるのは、どうしても9時を過ぎてしまいます。痛みと痺れのある父の体をマッサージし、言葉を交わして「じゃあ、また明日来るよ」と病室を出ていくのはいつも11時を過ぎていました。

 深夜の零時、寝静まった病棟の廊下をコツコツ歩いてやってくるのは3男の洋明さんです。隣の松山市の自動車の整備工場で働いているので、残業が終わってから高速道路を一時間飛ばしてやってきても、どうしても零時を回ってしまうのです。

 

 油臭い作業着のまま、洋明さんは父の体をマッージして、今日あったことを話します。誠さんにとって幸せなひと時です。「おやじさん、がんばって!」と声を掛けて帰っていくのはもう2時近い時間です。誠さんは子どもたちに励まされて、幸せなリハビリ生活を送りました。

 

 そんなある日、末期ガン患者の友人がお見舞いに来ました。お見舞いに来てくれたのはありがたかったのですが、友人は抗ガン剤に耐えることの辛さを語り、「俺はもう長生きできない体になってしまった」と愚痴をこぼしました。すっかり痩せて老人のようになってしまった友達を見送って、誠さんもすっかり悲観的になってしまいました。

「末期のガンだと言うけど、俺は彼がうらやましい。彼はここまで歩いてこれたんだ。でも俺は寝たきりで、歩くことも動くこともできない。ああ……」

 

 病棟にはそれぞれのいのちと向き合っている入院患者がいます。真夜の病棟は看護師の巡回の足音だけが響いて本当に寂しいものです。その静けさを破って、突然廊下を走る音がして、医師を呼ぶ看護師の声が聞こえました。本を読んでいた誠さんはぎくりとして、全身が耳となりました。

 

あの足音は友達の部屋に出入りする音ではないか! がんばれよ、負けるなと拳を握り、声援を送りました。1時間ほどが過ぎ、家族がすすり泣く声が伝わってきました。病室の暗がりの中で、誠さんは奥さんにそっと語りかけました。

「母さん! とうとう駄目だったようだ……かわいそうに」

仲良くしていた友達が天国へ旅立ったので、翌日は心が重い日となりました。

 

 誠さんは付き添いに来てくれている奥さんに愚痴をこぼしました。

「家に帰りたい。家に連れて帰ってくれ。もう病院にいるのはいやだ」

 あまりにしつこく頼まれるので、奥さんもたまりかねて言いました。

 

「私は両親の反対を押し切って、お父さんのところに嫁いできたんよ。商売人に嫁いでも苦労するだけやからと両親に反対され、それでもと反対を押し切ってあんたの所に嫁いできたんよ。だからどんなに辛いことがあっても、私には帰る家がなかった! 歯をくいしばって、くいしばって、辛抱するしかなかったんよ。

 

でも、お父さんには、リハビリをがんばって早く回復して、帰っておいでと言ってくれる子どもたちがいるやない! お父さんには帰れる家があるやないの! 

それなのに何よ、弱気を出して、めそめそ泣いて。癇癪(かんしゃく)を破裂させたりして。今ここでがんばらなかったらどうすんの! みんなよくなると信じて待ってくれてんのよ」

 

 奥さんは積もり積もった本音をご主人にぶちまけて、わあわあ泣きました。奥さんに折檻され、誠さんは穴があったら入りたい思いでした。

 

入院してから2年2か月たったひな祭りの日、誠さんは奥さんに車イスを押してもらい、自分の足で一歩、一歩、そして右、左と、大地を踏みしめて歩きました。歩ける! 足がちゃんと動く! 嬉しさが体を突き抜けました。

少し疲れたので車イスに乗り、散歩していると、草花や虫の“いのち”を感じます。

「ああ、みんな同じいのちを生きているんだね!」

 

 誠さんは車イスの生活になってみて、「懸命に生きている野の花が摘めなくなった」といいます。パン生地をこねてパンを作ることはできなくなったけど、それでも毎日お店に出てお客様を応対しました。2本しか動かない指でまめにハガキを書いて出したので、「誠さんからハガキをもらっちゃった!」と喜ばれました。誠さんはそれから14年間生き長らえ、84歳で大往生して天国に召されていきました。

ありし日の誠さんご夫妻 

flower
flower

次家さん夫妻

写真=車イスになった誠さん。長浜のお店はいま若夫婦がお店を引き継いでがんばっています。
https://tabelog.com/ehime/A3803/A380301/38001203


水野源三の詩集

沈黙の響き (その93)

「沈黙の響き(その93)」

瞬(まばた)きの詩人・水野源三さん

 

 

◇「わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか!」

パン屋を営んでいる源三さんの家に、パンを買いにやってきた牧師さんが縁となって、教会に行くようになり、聖書を読むようになりました。そしてイエスが歩まれた道を知るようになると、それまでと違った風景が見えるようになりました。

それまでは自分ほどつらい人生を歩まされている者はないと苦しんでいましたが、その苦しみの向こうにイエスがおられたのです。そのイエスは否定され、ののしられ、裏切られ、最後には十字架に張り付けにされて殺されたのです。

 

それでもイエスの眼差しは澄んでいました。誰一人疑ってはいませんでした。そして従容と十字架につかれたのです。エルサレムのゴルゴダの丘、絶命の寸前、イエスは天父に向かって叫びました。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ!

(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか!)

 イエスは内側から突き上げてくる不信の念と最後の最後まで闘い、しかしすべてを天意に預けて死んでいかれました。

 

源三さんにとってイエスはもはや人ごとでは無くなりました。まさか自分がイエスを拒否し……十字架に追いやったのでは……。重たく受け止めたのです。

苦悩の末に、「私がいる」という詩を書きました。

 

ナザレのイエスを

十字架にかけよと

要求した人

許可した人

執行した人

それらの人の中に

私がいる

 

源三さんはこの詩を涙なしには書けませんでした。

一字一字、文字を選び、泣いてお詫びしました。

私があなたを否定した……罪びとの頭でした。

私のために……敵の手に渡され……

十字架にはりつけにされたんです……。

申し訳ありません……どうぞ赦してください……。

 

◇もしも苦しまなかったら……

そして「苦しまなかったら」という詩が生まれました。源三さんはそれまで苦しんできたことに意味があったんだと気づいたのです。もっと言えば、苦しみによって導かれていたと気づいたのです。

 

もしも私が苦しまなかったら

神さまの愛を知らなかった

多くの人が苦しまなかったら

神さまの愛は伝えられなかった

もしも主イエスが苦しまなかったら

神さまの愛は現れなかった

 

源三さんは信仰を持つに至りました。それからの源三さんはすっかり変わりました。いじいじと悩んで暗かった源三さんが、霧が晴れたように明るくなり、快活になりました。彼の詩はますます喜びがあふれるようになり、キリスト教雑誌の『信徒の友』や『百万人の福音』などに掲載されるようになりました。

 

源三さんの妹・林久子さんが『悲しみよ、ありがとう』(日本キリスト教団出版局)という本を書き、「私の心の目を開いてくれたのは兄でした」と述懐しています。NPO法人支援センターあんしんの久保田果奈子さんはそれまでうとましく思っていた障がい者の妹が、

「私に幸せをくれたのは、妹のアッコだった!」

と気づいたのと同じです。障がいを抱えた兄や姉や妹が実は導きの星だったのです。

痛みや哀しみは私たちの心の目を開いてくれます。妹さんが人生の深みを見せてくれていたのです。

 

源三さんの詩は第1詩集『わが恵汝に足れり』ほか4冊の詩集に収録され、死後も何冊も詩集が編まれました。そのうち20篇ほどが讃美歌となり、それらを収録したCDも発売されています。源三さんは昭和59年(1984)、この世の務めを終え、「感謝以外のなにものもありません」と言い残して、47歳で天に召されていきました。

水野源三の詩集

水野源三の詩碑

いのちをありがとう

写真=水野源三さんの詩集や詩碑


こたつに入っている水野源三さん

沈黙の響き (その92)

「沈黙の響き」(その92

瞬(まばた)きの詩人・水野源三さん

 

 

◇“いのちの母”の愛を称えた“瞬きの詩人”

障害を克服して何ごとかをなし遂げた人は、私たちに多くのことを語ってくれます。車イスのカメラマン田島隆宏さんと同じように大変なハンディを背負った人に、詩人の水野源三さんがいます。水野さんは9歳のとき赤痢にかかって脳性小児麻痺になり、視覚と聴覚以外のすべての機能を失ってしまいました。

お母さんは幼い源三さんと何とかコミュニケーションを取ろうと模索し、50音表を指さしました。するとお母さんの指が意図するところに来ると、目をしばたいて合図を送ってきたのです。

「あっ、源ちゃんが何か伝えようとしている!」

一字、そしてまた一字、だんだん言葉になっていきます。お母さんは懸命に描き留めました。ついに源三さんの気持ちが伝わりました。もう10歳になっていたから、文章を書くことができたのです。

「源ちゃん、よかったね。とうとう気持ちが通じるようになった!」

しゃべることも動くこともできない源三さんでしたが、18歳ごろから自分の気持ちを詩に表現するようになりました。彼のなかにみずみずしい感性が育っていたのです。たとえば詩「ありがとう」にこう表現しました。

 

ものが言えない私は

ありがとうのかわりに

ほほえむ

朝から何回も

ほほえむ

苦しいときも

悲しいときも

心から

ほほえむ

 

返事をすることができない源三さんは、その代わりに、にっこり微笑んでいたのです。それは誰もが魅了されてしまうほどで、こぼれるような笑顔でした。源三さんを無音の闇から導きだし、人々と意思が疎通できるようにしてくれたのはお母さんでした。お母さんは源三さんにとって文字通り“いのちの母”でした。だからお母さんについてたくさんの詩を書きました。

 

白い雲は

母の顔

笑った顔が

泣いた顔に変わり

雨となる

 

雨の音は

私のために

祈り続けてくれた

母の声

 

雨あがりの空は

私の重荷を

になってくれた

母の愛

 

人々は源三さんの詩に心を揺さぶられ、いつしか「瞬(まばた)きの詩人」と呼ぶようになりました。

 

消しても消しても決して消えない母の姿、涙、祈り

 

源三さんの瞬きを一字一字書き取って詩を書いてくれたお母さんは、文字通り源三さんの手でした。次の「まばたきでつづった詩」は、献身的な愛で支えてくれたお母さんへの慕情がほと走り出ています。

 

口も手足もきかなくなった私を

二十八年間も世話をしてくれた母

良い詩をつくれるようにと

四季の花を

咲かせてくれた母

まばたきでつづった詩を

ひとつ残らず

ノートに書いておいてくれた母

詩を書いてやれないのが

悲しいと言って

天国に召されていった母

 

朝、母が庭で落ち葉を掃いている音が聴こえてきます。そのうち、掃いた落ち葉を燃やしている煙と臭いがただよってきます。それもこれも母の思い出につながっていました。

 

今も夢の中で老眼鏡をかけ

書きつづけていてくれる母

 

どこからか落葉掃く音が

聞こえてくる

落葉を焚く煙と臭いが漂ってくる

こんな朝は

 

消しても消しても

決して消えない

母の姿が

母の涙が

母の祈りが

 

源三さんは母が自分にとってどれほど大きなものであったか、改めて知りました。

詩の最後に、

「消しても/消しても/決して消えない/母の姿が/母の涙が/母の祈りが」

 とリフレインされますが、消しても消しても消えない面影でした。無条件の愛を惜しみなく注いでくれたお母さんでしたが、晩年はガンで苦しみ、先に天国に召されていきました。

 この詩が収録された第一詩集『わが恵み汝に足れり』(アシュラム・センター)が発行されたのは、お母さんが天国に召される5日前の昭和50年(1975)2月、源三さんが38歳のときでした。残念ながらお母さんは源三さんの詩集を見ることなく、旅立っていかれたのでした。

こたつに入っている水野源三さん

水野源三詩集

水野源三さん 版画 

写真=こたつに入っている水野源三さん


黄色いバラ

沈黙の響き (その91)

「沈黙の響き(その91)」

 

「自分は役に立っている」という考えは危うい

 

 

 山口県で名高校校長と呼ばれ、退職後も全国に教職者研修に呼ばれている佐古利南(としなみ)先生も辻先生の詩に注目し、新たな観点から吟味されています。辻先生は晩年体調を崩して車イス生活となり、寝たきりとなって高齢者施設に移り、認知症も併発されました。それでも生きることに悲哀を感ぜず、ベッドの中で手を合わせて、すべてに感謝しておられました。佐古先生は辻先生の詩の次の部分に注目されました。

 

「自分は役に立っている」というその思いのなかに

ひょっとしたら、傲慢とまでいいませんが

何か悲しい人間の自信がひそんではいませんか

 

人は誰でもいつの日か、何もかも喪失して

人に迷惑をかけなければ

瞬時も生きてゆけないそんな日が必ずやってきます

 

この「役立ち思想」の延長線上でゆくと

いつかは誰でも生きることの価値を失い、生きる資格をなくします

老いるということ、病むということ、呆けることは

そういうことだったのですか

 

 佐古先生は平成28年(2016)7月、神奈川県の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で、19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った悲惨極まりない事件を採り上げ、事件の背後にあるのが、「役に立たず、社会の荷物になっている」という皮相な考えだと指摘しておられます。地元の神奈川新聞も、「この事件は派生的に『生きるに値しない命はあるのか』という根源的な問いを私たちに投げかけた」と指摘しています。辻先生はこの事件の20年前に「役立ち思想」の持つ危うさを警告しておられたのです。

 

 役立つことが善で、それ以外は悪で邪魔者というのではなく、〝いのち〟そのものが尊い。それは“いのち”が神仏のこの世への現われだから絶対的に尊いんだ――そんな辻先生の訴えが聞こえてくるようです。ここで論じてきた障がい者のケアの問題は、ただ単に社会福祉政策の問題ではなく、生命の根源に対する畏敬の問題だといえます。

 

≪障がい者への介護は生きとし生きるものへの感謝だ

私は障がい者支援センターあんしんを運営されてきた樋口会長のご家族がたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。

 

道を踏み外してしまった子どもたちの矯正教育に携わっておられた辻光文先生は、

「お役に立たなければ、生きている価値はありませんか?」

と、根源的な問いを投げかけ、子どもたちの魂を拝んでおられました。すると子どもたちのいのちが燦然(さんぜん)と輝きだし、素晴らしい成果が上がっていきました。

 

障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。そしてこれは日本文化の固有な形なのでした。改めて、障がい者のケアができることを感謝せずにはおれません。

 

私たちの周囲に目を凝らしてみると、いのち、いのち、いのちがふんだんに満ちあふれています。まるで“いのちの花園”のなかに生息しているようです。

小学生のころ、学校から連れられて観たドキュメンタリー映画に、『砂漠は生きている』というのがありました。水一滴もなくカラカラに干からびた死の世界の砂漠で生きのびているサボテンの開花を高速度カメラで映していて、子ども心にその美しさに酔いしれました。自分が住んでいる世界がそれほど美しい世界であるとはそれまで思いもしませんでした。

 

その美しい世界への恩返しの一つとして、障がい者へのケアがあると思います。私たちの世界はまだまだ“弱肉強食”の世界ですが、それは変わっていかなければなりません。その先鞭をつけてくれ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。誰一人として見捨てられない持続可能な社会づくりに私も参加できることを心から感謝します。

黄色いバラ

写真=一輪の花が宇宙を表している

 

 


キミ、大好きだよ

沈黙の響き (その90)

「沈黙の響き(その90)」

「だっこの宿題」が両親との絆を確認させてくれる

 

 

広島県尾道市から北へ20キロほど入った山挟(やまかい)の町にある世羅(せら)小学校の一年生のクラスで、先生がかわいい盛りの児童に語りかけました。

「さあ、今日はすてきな宿題を出します。今日は家に帰ったらお母さんから抱っこしてもらいなさい。家におじいさん、おばあさんがいたら、お二人にもお願いして抱っこしてもらってね。

お父さんがお勤めから帰ってこられたら、お父さんにも抱っこしてもらうのよ。抱っこしてもらったら、どんな気持ちだったか、それを作文に書いていらっしゃい」

 

普段出たことがない『抱っこの宿題』という作文の宿題が出たので、クラスはわあっとどよめきました。でもまんざらでもなさそうです。みんなお父さんやお母さんに抱っこされている自分の姿を想像して、はしゃいだり、照れたりしています。ホームルームが終わると、スキップを踏むかのように、楽しそうに教室から出ていきました。

 

翌朝、みんながニヤニヤしながら提出した作文は、家庭における親子の情愛を見事に書き写していました。

「せんせいが、きょうのしゅくだいは、だっこです。みんながいえにかえったら、りょうしんにだっこしてもらって、そのときのじぶんのきもちをかいていらっしゃいといわれました。そんなしゅくだいははじめてだったからおどろきました。でもうれしかったです。だって、だっこしてもらうこうじつができたんだもん。いそいでいえにかえって、おかあさんにおねがいしました。

 

『だっこのしゅくだいがでたんだよ。しゅくだいじゃけん、だっこして』

そういったら、せんたくものをたたんでいたおかあさんがおどろいてたずねました。

『そうなの、だっこのしゅくだいがでたの。おもしろいしゅくだいね。だったらだっこしてあげよう。さあ、いらっしゃい。ママのひざにのって』

おかあさんはそういいながら、ぼくをだきしめてくれました。おかあさんにだきしめられていると、あまいにおいがして、ぼくのからだもぽかぽかとあったかくなって、とってもうれしかった。

 

『けんちゃんはいい子だから、ママのほこりだよ』

そういって、ぼくをなでなでしてくれました。

つぎはちいちゃいばあちゃんです。おかあさんがちいちゃいばあちゃんに、

『だっこのしゅくだいがでたから、だっこしてやって』

と、たのんでくれました。ちいちゃいばあちゃんはぼくをぎゅっとだきしめて、

『おおきゅうなったのう。どんどんせがのびるね。もうちょっとしたらおばあちゃんをおいこすよ』

と、あたまをなでてくれました。とってもうれしかった。

 

つぎはおおきいばあちゃんのばんです。おおきいばあちゃんはぼくをだきしめて、もちあげようとして、

『おもとうなったのう。もうもちあげきれんようなった』

とよろこんでくれました。そういわれてうれしかった。

 

さいごはおとうさんでした。おとうさんはぼくをだきかかえて、どうあげをしてくれました。くうちゅうにからだがふわっとうかび、うちゅうひこうしみたいで、きもちがよかった。そしてぼくをおろして、しっかりだきしめてくれました。おとうさんのからだはでっかくて、がっちりしていました。

だっこのしゅくだいがでたから、かぞくみんなに、だきしめてもらえました。

だっこのしゅくだい、またでたらいいな」

 

 大きいお婆ちゃんとはお父さんのお母さん。小さいお婆ちゃんとはお母さんのお母さんです。家族のみんなに抱きしめられて、幸せいっぱいな様子が伝わってきます。抱きしめられたのぬくもりの中で、どんなに自分が大切にされているか、実感したのです。

 

温かい家族の中で子どもが得るものは、自分は愛されているという確信です。そこから来る充実感が子どもに“居場所”を実感させてくれ、“存在感”へと発展していきます。だっこは問答無用に子どもを成長させてくれるものです。

キミ、大好きだよ

写真=居場所を見つけた子どもの屈託のない笑顔