日別アーカイブ: 2021年7月31日

沈黙の響き (その60)

「沈黙の響き(その60)」

苦しみは天が私を鍛えてくださる愛のムチだ!

 

 

 人は共感していただいたとき、天にも昇ったような高揚した気分になり、「少しはお役に立ててよかった!」と安堵するものです。平成27年(2015)8月にPHP研究所から出版した『苦しみとの付き合い方――言志四録の人間学』もそういう反応が多かった本です。

例えば、白血病を患って生死の境をさ迷った末に奇跡的に生還した大谷育子さんは、その苦汁をバネに、日本にはまだなかった骨髄バンクを立ち上げ、白血病の治療の道を切り拓いたことを書きました。

 

 採り上げている何人かの一人岡部明美さんの場合、出産と同時に脳腫瘍が発見され闘病生活が始まりました。しかし、その過程で、自分が随分鎧(よろい)を着て身構えていたことに気づいて脱ぎました。退院後、岡部さんは自己啓発のセミナーを開くようになり、それが多くのビジネスマンに支持されるようになりました。

 

 もう一人採り上げている辻光文(こうぶん)先生は罪を犯した青少年を更生させる施設の教師でした。あるとき、大病を患って入院手術した少女の看病に一生懸命でした。その子が健康を取り戻していく過程で、辻先生は本当にはその子の魂を拝んで成長を願っているのではなく、あああってほしい、こうあってほしいという願望を押し付けていただけだったことに気づきました。「愛」はいつくしみ育てるものですが、自分は道徳を押し付けるだけの教師でしかなかったことに気づいたのです。そして生まれたのが、『生きているだけではいけませんか』という詩でした。以後、大阪の矯正教育界は一味も二味も変わり、大きな成果が上がるようになりました。

 

 私はこうした方々を丹念に取材して、「逆境というのは、ひょっとすると天の恵みなのではないでしょうか」と問いかけました。するとお読みになった方々から随分多くのお手紙を頂戴しました。その中に身につまされるような話が書き綴られた手紙があり、私は読みながら思わず居住まいを正しました。以下はその方のお手紙です。

 

≪すべての人をあまねく照らした朝の光≫

「私は東京都内の病院で看護助手をしている大田原(仮名)と申す者です。この度出版されたご本を、昔、同じ病気で苦しんでいた友達からプレゼントされました。私は職場からの帰り、通勤電車の中で読み出して引き込まれてしまいました。家に帰って家事が終わると夢中になって読み続け、とうとう夜が白々と明け始めていました。読みさしのご本からふと目を上げると、窓からさわやかなやさしい風が吹いてきました。ご本を読了すると、どうしても先生にお礼を申し上げたくて、手紙を書きました」

 

お手紙はそう書き始められ、ご自分の特異な体験を書き綴っておられました。

「老人病院の夜勤は17時間労働で、とても過酷です。明け方の4時くらいから、洗面、おむつ交換、体位交換などの忙しい時間が始まり、息つく暇もありません。

私が担当している病室の中に、看護師仲間が揶揄(やゆ)して“死体置場”と呼んでいる部屋がいくつかあります。何一つ声を発することができず、食と排泄だけの患者さんたちが入院されている病室です。ひどい表現ですが、客観的にいえば本当に死体置場なのかもしれません。

 

ある日、一連の病室でのお世話が終わり、死体置場と呼ばれている病室に入ろうとしたとき、朝日が射してきました。どの患者さんたちにも等しくうららかな朝日が当たっていました。

その瞬間、内なる声から、『これらの方々にも尊いいのちが宿っているのです! 死体置場と呼ぶなんてもってのほかです。反応したくても反応できないだけなんです』と諭(さと)されました。あまりに威厳あるリンとした口調に、私は思わず襟を正しました。

 

『この方々は与えられたいのちをそのまま受け入れ、精いっぱい生きていらっしゃいます。人生の最期のときを精いっぱいもてなして、ご苦労さまでしたと送り出してあげてください』

私は朝日の中で涙をぽろぽろ流し、そうだ、そうだ、そうしてあげなきゃいけないとその方々に自然に手を合わせていました」

 

言われてみると、死体のような患者さんがかすかに反応されることがあります。

「窓を少し開けてそよ風が部屋に入ってきてその方の頬を撫でたとき、表情が緩んで明らかに喜んでおられることがわかります。話しかけるとき、患者さんの両手を包んで話すと、すると両手を温かくくるまれているとわかるのか、表情が和むんです」

 

大田原さんが書いておられたように、私もいつしか有用という視点に陥っていたように思いました。そして「それにこんな不思議な経験を恵まれました」と書き綴っておられました。

 

≪誰からも理解されず、軽蔑された日々≫

「私は重い小児麻痺の障害のある夫と結婚しました。ところが夫の家族からは、父親が借金を残して出奔(しゅっぽん)したという引け目があるから障害者と結婚したに違いないと陰口し、辛い思いをしました。

 

私たちは子どもを授かりましたが、私は妊娠中毒症から重い慢性腎炎にかかってしまいました。ところがそれに対しても、病気を隠していたに違いないとそしられました。私は慢性腎炎を治すために2年あまりハリ治療に通いましたが、針のむしろに坐っているように辛い日々でした。

 

さらに27歳のとき、病気が高じて重症化し、とうとう死を目前にしました。そのときも親族から、役に立たないんだったら、生きていては邪魔だとなじられ、もうどこにも行く場所がなくなってしまいました。

 

≪私はあなたをそのまま受け入れます!≫

そんなとき、目には見えない“大いなる存在”が語りかけてくださったのです。

『あなたは役立たずではありません。あなたはあなたのままでいいのです。わたしはあなたをそのまま受け入れます』

 そんなことを言って慰めてくださいましたが、実は私はそれまで、こんな人生でいいのかな、あんな人生がいいなと選り好みして生きていました。そして自分の人生は失敗だったと臍(ほぞ)を嚙んでいたのです。

 

ところがその方はそんなことはない、あなたの直感を信じなさいとおっしゃるのです。そういう声を聴いて、ああ、ここに私を全部受け入れてくださる方があると安堵しました。そんなお諭しがあったので、私はもう思い迷わないことに決めました。

 

“大いなる存在”に『すべてお任せします』と言い切ったとき、私の中に大きな安心感が飛び込んできました。それ以来、“大いなる存在”との語らいが生きる力となりました。それが神なのか、仏なのか、私にはわかりません。でも、見守られ、導かれているのは確かです」

 世の中には繊細な感性をお持ちの方がいらっしゃるものです。大田原さんも類稀(たぐいまれ)な感性を恵まれておられるようです。

 

≪寝たきりの患者さんたちに最期のお世話をする役目を授かった!≫

「一年ほどの闘病生活の末、私はとうとう退院して社会復帰でき、看護助手として寝たきりの患者さんのお世話をするようになりました」

 

看護助手は医療の専門的な知識がある看護師とは違い、病院の中の一番下の肉体労働者です。大田原さんはどうしても医療従事者内の序列という見方で見てしまい、自分を価値なき者と卑下し、卑屈になっていました。ところが内なる声は大田原さんに、死体置場の患者さんたちの最期の介護をお願いしたいと訴えたのです。

 

「ある朝、前述したような出来事を経験して、私は貴いご意志のお陰で、老人病院で貴い奉仕を託されているのだと気づきました。これまでいろいろ辛い体験を経てきたのも、これからお世話する患者さんたちにそんな思いをさせてはいけないと私にわからせるためだったのです。

 

私の役割はこれらの方々の地上での最期の時間のお世話をして、天国に送り出すことです。そう思うと自分の役割がありがたくて、患者さんたちがますます愛(いと)おしくなりました。表面的には何にも反応してくれない患者さんたちですが、自分がやさしいまなざしで包まれていると霊的に感じていただけたら、この以上の幸せはありません」

 

 この手紙がきっかけとなって、大田原さんと私は手紙やメールが行き来するようになりました。大田原さんは以前にも増して忙しいけれども、今は全然疲れないと言われます。

「神渡先生が言われるように“沈黙”は無音ではありませんね。“沈黙の響き”にじっと耳を傾け、内なる声に聴き入っていると、大切なことに気づきます。

 

私は長年被害者意識のとりこになっていて、みんなに意地悪ばかりされてきたと思っていましたが、あれは私が他の人のことを思いやる余裕がなかったので、みなさんが私に仕返しをされていたのだと気づき、すっかり楽になりました。まったく身から出た錆(さび)で、恥ずかしく思います。

私が申し訳ありませんでしたと折れて譲るようになると、意地悪もなくなりました。“沈黙の響き”は生き方に気づかせてくれる宝庫ですね」

 

 そういえば、大田原さんの口調から、いつしか険が取れていることに気づきました。そして楽しいやり取りが続いています。私たちは足りない存在だけれども、それでも神の御手の代りとして用いてくださる喜びを味わっているのでした。(続き)

写真=光の海に一人ヨットを走らせていると、この世的なものが遮断され、天空を舞っている気持ちになれる