月別アーカイブ: 2021年8月

原爆死没者慰霊碑の碑文

沈黙の響き (その64)

「沈黙の響き(その64)」

頭を傾げてしまう原爆慰霊碑の碑文

 

 

≪謝るべきは日本なのか?≫

ところで話は再び、今年の原爆慰霊式典のことに戻ります。NHKテレビにハニワ型の原爆記念碑に刻まれている碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」が映しだされました。碑文には主語が書かれていないので、普通に読めば、「安らかに眠ってください。私たちは無謀な戦争を起こしたことを反省し、二度と過ちはくり返しませんから」となります。

 

前後の文意を補足すると、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国は原爆を投下し、戦争を終結させました。失敗の元凶は日本です」となります。原爆被害をもたらしたのは、米国ではなく日本だと断罪しています。

果たしてそうなのでしょうか? 私はとても違和感を覚えます。

 

太平洋戦争終結のあと、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、太平洋戦争後の日本を占領・管理し、原爆取材には徹底した報道管制を敷き、新聞雑誌には原爆関連の情報は一切公表させませんでした。

いやそれ以前に、米軍が日本に対して行った非戦闘員(一般国民)に対する無差別絨毯(じゅうたん)爆撃は明らかな戦時国際法違反だと非難しました。にもかかわらず、米軍は絨毯爆撃を強行し、約300万人の日本国民を殺戮(さつりく)したのです。

 

それを蒸し返されるのを恐れて、「日本は残虐な戦争を始め、その報復として米国はやむなく原爆を投下し、戦争を終結させたのだ」と強弁し、東京裁判も一貫して日本悪玉論で推し進め、無謀にも戦争首謀者として7名を特定して処刑し、横浜の久保山火葬場で荼毘に付しました。しかもその粉骨灰は、犠牲者の墓が建てられて人々が慰霊碑に詣でることがないようにしようという意図から、太平洋にばらまく計画でした。涙も出ないような仕打ちです。

 

その計画を察知した三文字正平弁護士(極東軍事裁判で小磯国昭陸軍大将・首相の弁論人)や市川伊雄(いゆう)興禅寺住職、飛田善美久保山火葬場長は、久保山火葬場から骨壺一杯分の遺骨灰を盗み出し、興亜観音に隠しました。

 

この遺骨灰を昭和34年(19594月、吉田茂元首相が揮毫して「七士廟」が建立され、次いで翌年、三河湾を望む風光明媚な愛知県西尾市の三ヶ根山に岸信介元首相の揮毫で「殉国七士廟」が建立されました。

 

同地はA級戦犯の刑死者7柱に加え、BC級戦犯刑死者901柱、それに収容中に病死、自決、事故死、死因不明で亡くなったABC級戦犯160柱を合わせ、計1068柱が供養され、「もう一つの靖国神社」と呼ばれています。

 

≪GHQが成功した洗脳工作≫

私はGHQが占領軍政下で行った言論統制と、その結果日本人がまんまと陥れられた自虐思想について、拙著『苦しみとの付き合い方 言志四録の人間学』(PHP研究所)の第5章「戦後70年のレクイエム」で徹底して論じました。

 

その3項目で「自虐思想の淵源を探る」と題して、占領軍が占領下の日本に対して行った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(私訳・戦争を起こしたことが罪だと感じるよう仕向ける情報工作)があったことを明らかにし、「日本は本当に侵略国家だったのか?――大東亜戦争、東京裁判、そして占領時代を検討する」を論じました。

 

私は米国の日本洗脳工作の集大成が、広島平和記念公園の記念碑「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文言に他ならないと思えてなりません。あれほど印象操作として成功し、日本人の脳裏に刷り込むことに成功したものは他に類例がありません。

 

あの碑文の決定に際し、GHQは徹底して日本政府や広島市に干渉し、昭和天皇(宮内庁)は碑文の主語を「人類」と明記することによって、日本悪玉論を排そうとされましたが、とうとうGHQに押し切られてしまいした。

 

広島市に講演に訪れた極東国際軍事裁判で判事を務めたインドの法学者ラダ・ビノード・パール氏は,「広島、長崎に原爆を投ずるとき、米国はそれを正当化する理由を挙げつらい、何のために原爆は投ぜられなければならなかったか強弁した」として、非人道的行為を強く非難しました。

 

さらに碑文の内容を読み、「原爆を落としたのは明らかに日本人ではありません。にもかかわらず、日本人が日本人に謝罪するのですか? 原爆を落としたアメリカ人の手はまだ清められていない」と難詰しています。

 

国際政治の現実はナイーブな理想論では解決できません。シビアな国家エゴと国家エゴのぶつかり合いです。自国を侵させない力を持つ以外に、生き延びることはできません。そろそろ自虐思想から脱却し、自分の足で立つべきときに来ているのではないでしょうか。(続く)

原爆死没者慰霊碑の碑文

写真=原爆死没者慰霊碑の碑文

 


チューリヒ湖

沈黙の響き (その63)

「沈黙の響き(その63)」

スイスでの講演に同行した佐伯宏美さん

 

 

 私が佐伯宏美さんを知ったのは、平成13年(2001)9月、スイス最大の商業都市チューリッヒで行われたJAL主催の講演会に参加されたことからでした。日本のことを話してくれる人をということで、私に白羽の矢が立ったようでした。そこで私は読者の方々に呼びかけ、「一緒に行きませんか。そしてスイスの方々と交流しましょう」と呼びかけました。そのツアーに参加された22名のお一人が佐伯さんでした。講演会には200名もの方々が来られて盛況でした。

 

≪スイスで話した四国遍路の醍醐味≫

 私はその一か月前、四国88か所札所1200キロを36日かけて遍路したところだったので、チューリッヒでは、み仏から見守られ、導かれた遍路旅のことをしました。金剛杖が40センチもすり減り、ズックも靴底がすり減って、穴が開くほどの過酷な行脚でした。

 

 この遍路は脳梗塞で倒れ、右半身麻痺にはなったけど、大切なことに気づかしていただき、人生を再出発させていただけたから、そのお礼のため88か所札所を廻ろうというものでした。それにリハビリをかねて1200キロ歩こうと意図しました。

 

 ところが医者からは大反対され、叱られました。

「炎天下を1200キロも歩いたら、また脳梗塞を起こして救急車で運ばれることになってしまう。それは医者として断じて許可するわけにはいきません」

 3年目も5年目も8年目も同じく反対されました。しかし12年目、医者のほうが根負けして、「そこまで言うんだったら、行ったらいい。私は許可しないけれども、自体責任でやるんですね。でも水道の蛇口を見つけたら、口を付けて水をガボガボ飲んで、血液がサラサラなるようにして歩くよう気をつけてください」と、妥協してくれました。

 

 そこで私は50歳になった平成10年(199881日から歩きだしました。1日のノルマが35キロ、もちろん足を引きずりながらの遍路でしたが、方々で接待してくださり、内面的にはとても満たされた旅となりました。四国遍路の詳しいことは『人は何によって輝くのか』(PHP研究所)に書いているので、ここではくり返しません。

 

≪このお遍路にお前を誘い出したのは誰だと思うか?≫

 最後の88番札所の大窪寺で、36日間で完歩できたことを感謝して祈っていると、不思議な声が聴こえてきました。

36日間、実にご苦労であった。しかし、この遍路の旅は誰が企画したかわかるか?」

「えっ、私が企画してお遍路を始めたと思っていましたが……」

「徳島市の南を流れる鮎喰川(あくいがわ)を一宮橋で渡ろうとしているとき、起きた出来事があったな。覚えているか? お前の後ろからバイクで来られた方がバイクを停め、200円お接待くださっただろう」

 信じがたいことに、どうも弘法大師のようです。

 

「もちろん、よく覚えています。ありがたくて、嬉しくて、思わず南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)、南無大師遍照金剛と唱えてその方を拝み、涙がボロボロ出ました」

「あれは山あり谷ありの道を1日35キロ歩くことがどんなに辛いことかを経験すると、たった1本の缶ジュースがありがたくて受け取れないとお前に経験してもらいたかったのだ。みんな生かされ、助けられ、導かれているんだ。そのことを深く感じてもらうために、このお遍路にお前を引っ張り出したのだ!」

 

「ええっ、こんなちっぽけな人間に目をかけ、導いていてくださっていたんですか……」

 私は感激のあまり、大窪寺の太子堂の前に立ち尽くすことができず、私はひれ伏して泣きました。遍路者はとても敏感になっているので、そういう声が聞こえるのです。

 講演会の聴衆にとって、「お遍路(巡礼)は“内なる神”との対話のひと時です」というメッセージは聴衆にはとても新鮮だったらしく、質疑応答はそこに集中しました。

 

≪キリスト教最大の巡礼道カミーノ≫

スイスの方々と歓談していると、キリスト教の巡礼道のことを教えてくださいました。

「仏教でもお遍路を大事にされているんですか? キリスト教でも巡礼はとても重要視していて、その最大の巡礼がスペインのカミーノと呼ばれている800キロの巡礼です。フランス側からピレネー山脈を越えてスペインに入り、イベリア半島をビスケー湾沿いに西へ西へと歩き、スペインを伝道したと言われているヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の墓に詣でるのです。カミーノが世界遺産に選ばれたことから、今では世界中から巡礼者が押しかけています」

 私は話を聴きながら、今度はぜひカミーノを歩いてみようと思いました。

 

すると「あなたがカミーノに挑戦されるのでしたか、私もその巡礼に参加したい」とおっしゃる方が何人かあったので、「全行程800キロを歩くのは無理ですから、最後の100キロを同行されませんか?」と申し上げ、4年後にカミーノを歩きました。スイスの方々も4名同行され、最後の100キロを一緒に汗を掻きました。

 

 講演の後、佐伯さんと私の共通の友人で半身不随になった人に、旅先で励ましのビデオレターを撮りました。そんなご縁もあって、来年の春先はぜひ広島市で講演会をやりましょうと盛り上がりました。

 

≪スイスの旅先で世界貿易センターのテロ事件に遭遇した!≫

 講演会で知り合ったばかりのスイスの方々がチューリッヒ観光を案内してくださり、さらにはスイスアルプスのトレッキングに同行してくださり、楽しい旅となりました。

 911日も私たちはスイスアルプスのトレッキングを楽しんでホテルに降りてきました。するとロビーに置いてあるテレビに人々が群がって騒いでいます。何事だろうと覗き込むと、何とニューヨークの世界貿易センターの南北両棟に、ハイジャックされた旅客機2機が突っ込むという、にわかには信じがたいテロが発生したのです。ビルは炎上して崩壊し、約3000名の方々が犠牲になりました。国際政治の生々しい現実を突きつけたおぞましい事件でした。

 

 その後、私はみなさんと別れ、オーストリアとドイツの内観研修所の取材に行きました。日本で始まった内観が欧州でも常設の研修所を運営するほどに広がっていたので、実地に取材しました。人間の生命に起こるコペルニクス的覚醒については、とても重要なことなので、別な機会に改めて触れたいと思います。

 

 その翌年3月、佐伯宏美さんは広島アステールプラザで私の講演会を企画されました。何かの組織の会長とか婦人部長とかではないまったくの主婦が、いったいどれほどの人を集めることができるか心配でした。しかし佐伯さんは喜々としてPRに奔走し、その結果、当日は立ち見が出るほど盛況となり、約300人近い人々が参加されました。佐伯さん自身の感性の高さが人々を引き寄せたのです。

 

 私は聴衆の関心の高さを知って驚き、思う存分話すことができました。その後、佐伯さんは何回も講演会を企画し、その都度盛会なので、佐伯さんへの信頼は揺るぎのないものになりました。(続き)

チューリヒ湖

マッターホルン

写真=チューリッヒは同名の湖に面した絵葉書のように美しい街でした。

 

 

 


沈黙の響き (その62)

「沈黙の響き(その62)」

哀しみの原爆慰霊式典

 

 

 8月6日、今年も広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和記念式典が開かれました。その夜、20数年前からの友人で、広島市に在住されている佐伯宏美さんが、Facebookに次のような一文を掲載されました。こういう文章を読むと、76年前に起きた悲劇が他人事ではなく、自分のことのように身につまされます。

 

「広島に原爆が投下されてから76回目の猛暑の朝、昨年に引き続き、広島平和祈念式典は互いに距離を取り、人数を制限して静かにとり行われました。私たち家族はテレビの前に正座して、静かに815分の黙祷を捧げました。

 

広島の人にはみんなそれぞれに86日(ハチロク)の悲しみのドラマがあります。それぞれの家族に、肉親が一瞬で人生を奪われた無念と哀しみがあったろうと思うと、深い切なさが押し寄せてまいります。

 

≪原爆直下で、義母は瞬時に亡くなった!≫

わが家の場合、主人の父はシゲノさんという、まだ19歳だったかわいいお嬢さんと結婚したばかりでした。86日のこの時間、義父は己斐(こい)駅前でシゲノさんと待ち合わせをし、シゲノさんは己斐駅に向かって、ちょうど原爆直下の相生橋あたりを走っていた電車の中にいたと推測されます。ところがそこで原爆が炸裂し、一瞬にして跡形もなく消え、亡くなられたのです。

 

義父自身もたいへんなやけどを負いましたが、連日奥さんを探して歩き回りました。しかし、消息は杳(よう)としてつかめませんでした。その後、義父は主人の母と再婚し、今の私たち家族が生まれました。

 

今年は長女と孫が帰省していますが、可愛くてあどけない孫を見、またわが家の歴史を思うと、思わず胸が熱くなります。原爆犠牲者の悲しみがあるわが家ですが、こんなに元気いっぱいの孫にまで、命のバトンを渡すことができて嬉しく思います。

 

19歳で原爆の犠牲になられたシゲノさん、あなたのことはいつまでも忘れません。私の子どもや孫たちに、あなたが生きていらっしゃったこと伝えてまいります。悲しみの連鎖はどうかこの時代で終わりにしたいと思われてなりません」

 

佐伯宏美さんの義父は長いこと、花嫁さんの辛い捜索のことは話さなかったそうです。後になって宏美さんやご主人の昌明さんが調べて当時の様子がわかってきて、義父の深い悲しみを知り、話すことさえできなかった悲しみに愕然としたのでした。佐伯さんは悲しい被爆者の歴史を背負っていたのです。

 

「私たち遺族は純粋に、86日は2度と原爆が起きない世界平和を広島から発信する日でありたいと願っています。ところが現実には政党の平和運動に利用され、翻弄している状態が残念でなりません。私たちが原爆慰霊塔の前での式典に参加せず、夕方になって遠くから手を合わせて祈っているのもそういう理由からです」

 佐伯さんは慰霊祭が原爆犠牲者を悼むことを忘れて、政治闘争化している現状を残念に思っています。

 

≪話せないほどの哀しみ≫

 佐伯さんの義父は被爆死したお嫁さんを探し回った哀しみをついに話しませんでした。哀しみの極み、誰にも話せなかったと聞いて、私は思い当たることがありました。私の父は大東亜戦争の末期はビルマ戦線で、蒋介石が率いる国民党軍の重要な支援ルートだったインド領北東部インパールの攻略を目指したインパール作戦に従事しました。

 

 この作戦は計画段階で無謀すぎると反対された作戦でした。援蒋ルートを断つという意図はわかるけれども、2000メートル級の山岳地帯で戦闘する過酷さに加え、重装備、豪雨、マラリア、赤痢などの感染症の蔓延、それに武器弾薬や食糧の補給の困難さから実行不能と反対されました。

 

 それでも第15軍及び第18師団の牟田口廉也中将は命令を撤回せず、作戦は強行されました。補給ルートが確保されないままの戦いだったので、日本軍は打つ弾が無く、食べる食糧もない窮地に追い込まれました。戦闘機主体のイギリス軍の反撃に遭い、10万人の戦力のうち、3万人が戦死、戦傷やマラリアや赤痢に罹って後送された者が約2万人という敗戦色を深めていきました。

 

 前線から退却する道は将兵の死体がごろごろしていたことから「白骨街道」と呼ばれ、退却する自軍について行けない傷病兵が泣きながら訴えました。

「俺を見捨てないでくれ! 頼むから連れていってくれ」

 泣きながら訴える戦友たちの必死な声を聞きながら、自分自身が餓死寸前の退却だからどうすることもできず、泣く泣く振り切って退却を続けました。父にとって、戦友を見捨てて退却したという慙愧の念が胸の中を渦巻いていたのです。

 

 父は無事日本に復員して故郷に帰り、私たちが生まれました。風呂から上って座敷で父とたわむれているときなど、何も知らない私たち3人の子どもは父にせがみました。

「ねえ、ねえ、父ちゃん、軍隊時代のことを話してよ」

 それに対して、父は満州や中国大陸を転戦していたころの、ことさら問題がなかった兵隊時代のことは話してくれましたが、ビルマ戦線のことはいっさい話しませんでした。なのに父の書棚にはインパール作戦に関する本が何冊もありました。やはり一番の関心は、インパール作戦とは何だったのかと、必死で全貌をつかもうとしていたのです。

 

 父は平成18年(20061月、90歳で亡くなりました。私は父の書棚のインパール作戦関係の本をむさぼるように読みました。そして戦友たちの死体を乗り越えて行った死の退却行のことを知りました。それはあまりにも無惨で、誰にも話せなかったのです。

 

 佐伯さんの義父が原爆で亡くなった新妻のことは一切話さなかったと聞いて、私の父の哀しみもそうだったと思いました。(続く)

写真=広島平和記念公園の原爆慰霊碑

 

 

 


沈黙の響き (その61)

「沈黙の響き」(その61

ベートーヴェンの失意と奮起

 

 

生身の人間にとって、奮起したり、失意したりするのは、ごく日常的に起こるもので、生きている限り、上がり下がりがあるのは当然です。問題は落ち込んだとき、どうやって自分を立て直し、奮起するかですが、見事な人生を歩いて結果を出している人は、そのあたりのコツを知っています。

 

その例を、音楽家にとって決定的に重要な聴力を失い、失望し、自殺寸前にまで追い込まれたベートーヴェンは、その危機を乗り越えて立ち直りますが、どういう過程を経て乗り越えたのか、それを見てみましょう。

 

ベートーヴェンはドイツで類まれなるピアニストとして登場しました。その後、オーストリアの音楽の都ウイーンに移ってハイドンに師事して腕を磨き、作曲家として名声を高めていきました。

 

≪難聴になったベートーヴェン≫

ところが、2627歳ごろからだんだん耳が遠くなり、聴こえにくくなりました。初めは雑音がざわざわしていただけでしたが、次第に難聴が進み、劇場ではオーケストラのすぐ前にいないと俳優たちの声が聴き取ることができません。少し離れると楽器の高音部分も聴き取れなくなりました。

 

そのころ、ベートーヴェンは長らく下痢に悩まされていたので、下痢が原因で聴覚もおかしくなったのではないかと思いました。そこで侍医のフェーリング先生に診てもらうと、先生はダニューブ河の温泉で微温浴することを勧めました。

オーストリア・アルプスに端を発し、シェーンブルン宮殿の東側をとうとうと流れ、宮殿を過ぎると西に向きを変え、オーストリア・ドイツの平原を潤しています。ベートーヴェンは難聴のことは人にはひたすら隠し、微温浴をして治療に専念しました。

 

1802年、ベートーヴェンはウイーンの北北西の郊外、ダニューブ川の西岸にある、限りなく美しい牧草地に囲まれたハイリゲンシュタット村に移って静養しました。

そこにピアノの弟子のフェルジナンド・リースが村を訪ねてきました。2人で散歩をしていると、リースが耳を澄まして、

「おや、先生、どこからか牧歌的な笛の音が聴こえてきますね……」

とつぶやいたのです。ところがその笛の響きがベートーヴェンには聴こえません。

ベートーヴェンは、音楽家は誰よりも繊細な聴覚を持っているべきだと思っており、自分の聴覚は並外れて優れていると自信を持っていただけに狼狽(ろうばい)しました。

〈ええっ、何だって! 笛の音が聴こえるって? ぼくには何も聴こえない。

とうとう……本物のつんぼになってしまったのか!〉

 

 音楽家にとって、耳は何よりも大切な器官です。

ベートーヴェンは楽想を得るため、よく森の中を散歩しました。広大な青空が広がり、白い雲がところどころに湧いています。その開放感はベートーヴェンにとってはたまらないものでした。頬を撫でるそよ風や天使が踊っているような木漏れ日、青々とした森の谷川のせせらぎ、そして農耕に励む農民たちの姿は豊かな楽想を与えてくれました。

 

風雨にびっしょり濡れるのもかまわず野山を歩き回り、時に耳をつんざくような雷鳴ですらもインスピレーションを与えてくれ、浮かんでくる曲想をスケッチしました。目で見える視覚もさることながら、聴覚はベートーヴェンにインスピレーションを与えてくれていました。だからベートーヴェンは聴覚を失って深い苦悩に襲われたのです。

 

≪「ハイリゲンシュタットの遺書」≫

その年の10月、絶望したベートーヴェンは自殺しようとし、弟カールとヨハンに宛てた遺書に自分の葛藤を書きつけました。

「私はまだ28歳になったばかりで、やりたいことがいっぱいある。私に課せられた仕事を完成しないうちは、この世を去ることなどできない」

 

ベートーヴェンは冷酷な運命の女神に死の淵にまで追い詰められましたが、死のうとしても死ねません。遺書を書いていた机を叩いて、絶叫しました。

「私は芸術のために、この苦境に何としても打ち克たなければならない!」

ベートーヴェンは遺書を書いていたはずでしたが、逆に芸術に身を捧げることを誓った宣言文を書き上げたのです。これが「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるものです。

 

“芸術のために”という使命感が難聴の危機を乗り越えさせました。

 やはり、自分に“大いなる存在”から託されていると思える課題を、何としても成就しようと覚悟を決めたとき、人は俄然強くなります。ベートーヴェンが生きる力を取り戻したのは、天的使命を自覚したからに違いありません。

 

 この時期、ベートーヴェンは心の恋人ジュリエッタ=ギッチアルディに、幻想的な作品ピアノソナタ「月光」を捧げています。雲間から漏れる月の光を、タン・タターンのゆったりとしたリズムでくり返して表現し、宇宙の神秘の扉を次第に開いていきます。

 自殺すら思い立ったハイリゲンシュットの苦悩を表現しています。

 

第2楽章に入ると陰鬱な夜の情景が打って代わって速いテンポに切り替わり、苦難から解き放たれた喜びを訴えます。明らかにベートーヴェンは、難聴は激しくなったけれども、音楽家としての使命を放棄することはできないと再度決意しました。

そして第3楽章ではプレスト・アジタート、さらにアップテンポになり、激しさに満ちあふれた音楽に変わります。

明暗2つの世界を苦しみながら書き上げたこのピアノソナタは、ベートーヴェンに新しい世界が訪れたことを伝えてくれています。

 

ベートーヴェンは32曲のピアノソナタを書きます。中でも第8番「悲愴」、第14番「月光」、第23番「熱情」が3大ピアノソナタと呼ばれています。ベートーヴェンはただの音楽家ではなく、「苦悩を乗り越えて歓喜に至った」音楽家だったのです。

 

 癇癪(かんしゃく)持ちだったベートーヴェンは、なかなか良好な人間関係を維持できず、作曲を教えてくれた師匠のハイドンとも喧嘩別れをしました。彼が生涯独身だったのは、彼の癇癪持ちという性格に女性がついてこれなかったという側面もあるようです。

 

≪“沈黙の響き”が伝えてくれた交響曲「運命」の主題≫

 苦難を乗り越えて、1803年以後の第2期の、ロマン・ロランに言わせれば「傑作の森」という時代が始まりました。ベートーヴェンの親友で伝記作者のシントラーが、第5交響曲の最初に鳴り響く有名な主題「ジャジャジャ・ジャーン」について尋ねたところ、ベートーヴェンは即座に答えました。

「運命は……かくのごとくに扉を叩くんだ」

「沈黙の響き」に耳を澄ませて聴き入ったとき、聴こえてきたのが、あの主題だったのです。

 

以来、第5交響曲は「運命交響曲」と呼ばれるようになりました。沈黙は決して“無音の闇”なのではなく、もっとも雄弁な曲想の宝庫なのです。これに続く第6交響曲「田園」も同じ「傑作の森」の時代区分に入る作品です。

 

 こう俯瞰(ふかん)すると、「沈黙の響き」をさし置いて創作活動はできないことがわかります。(続く)

写真=苦難を乗り越えて光を見出したべートーヴェン