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キミ、大好きだよ

沈黙の響き (その90)

「沈黙の響き(その90)」

「だっこの宿題」が両親との絆を確認させてくれる

 

 

広島県尾道市から北へ20キロほど入った山挟(やまかい)の町にある世羅(せら)小学校の一年生のクラスで、先生がかわいい盛りの児童に語りかけました。

「さあ、今日はすてきな宿題を出します。今日は家に帰ったらお母さんから抱っこしてもらいなさい。家におじいさん、おばあさんがいたら、お二人にもお願いして抱っこしてもらってね。

お父さんがお勤めから帰ってこられたら、お父さんにも抱っこしてもらうのよ。抱っこしてもらったら、どんな気持ちだったか、それを作文に書いていらっしゃい」

 

普段出たことがない『抱っこの宿題』という作文の宿題が出たので、クラスはわあっとどよめきました。でもまんざらでもなさそうです。みんなお父さんやお母さんに抱っこされている自分の姿を想像して、はしゃいだり、照れたりしています。ホームルームが終わると、スキップを踏むかのように、楽しそうに教室から出ていきました。

 

翌朝、みんながニヤニヤしながら提出した作文は、家庭における親子の情愛を見事に書き写していました。

「せんせいが、きょうのしゅくだいは、だっこです。みんながいえにかえったら、りょうしんにだっこしてもらって、そのときのじぶんのきもちをかいていらっしゃいといわれました。そんなしゅくだいははじめてだったからおどろきました。でもうれしかったです。だって、だっこしてもらうこうじつができたんだもん。いそいでいえにかえって、おかあさんにおねがいしました。

 

『だっこのしゅくだいがでたんだよ。しゅくだいじゃけん、だっこして』

そういったら、せんたくものをたたんでいたおかあさんがおどろいてたずねました。

『そうなの、だっこのしゅくだいがでたの。おもしろいしゅくだいね。だったらだっこしてあげよう。さあ、いらっしゃい。ママのひざにのって』

おかあさんはそういいながら、ぼくをだきしめてくれました。おかあさんにだきしめられていると、あまいにおいがして、ぼくのからだもぽかぽかとあったかくなって、とってもうれしかった。

 

『けんちゃんはいい子だから、ママのほこりだよ』

そういって、ぼくをなでなでしてくれました。

つぎはちいちゃいばあちゃんです。おかあさんがちいちゃいばあちゃんに、

『だっこのしゅくだいがでたから、だっこしてやって』

と、たのんでくれました。ちいちゃいばあちゃんはぼくをぎゅっとだきしめて、

『おおきゅうなったのう。どんどんせがのびるね。もうちょっとしたらおばあちゃんをおいこすよ』

と、あたまをなでてくれました。とってもうれしかった。

 

つぎはおおきいばあちゃんのばんです。おおきいばあちゃんはぼくをだきしめて、もちあげようとして、

『おもとうなったのう。もうもちあげきれんようなった』

とよろこんでくれました。そういわれてうれしかった。

 

さいごはおとうさんでした。おとうさんはぼくをだきかかえて、どうあげをしてくれました。くうちゅうにからだがふわっとうかび、うちゅうひこうしみたいで、きもちがよかった。そしてぼくをおろして、しっかりだきしめてくれました。おとうさんのからだはでっかくて、がっちりしていました。

だっこのしゅくだいがでたから、かぞくみんなに、だきしめてもらえました。

だっこのしゅくだい、またでたらいいな」

 

 大きいお婆ちゃんとはお父さんのお母さん。小さいお婆ちゃんとはお母さんのお母さんです。家族のみんなに抱きしめられて、幸せいっぱいな様子が伝わってきます。抱きしめられたのぬくもりの中で、どんなに自分が大切にされているか、実感したのです。

 

温かい家族の中で子どもが得るものは、自分は愛されているという確信です。そこから来る充実感が子どもに“居場所”を実感させてくれ、“存在感”へと発展していきます。だっこは問答無用に子どもを成長させてくれるものです。

キミ、大好きだよ

写真=居場所を見つけた子どもの屈託のない笑顔


柏木満美さん

沈黙の響き (その89)

「沈黙の響き(その89)」

「あんしん」がんばれ応援歌

 

 

 新潟県中越地方の雪国で生れた障がい者を支援するNPO法人あんしんが、多くの人の共感を得て話題となっています。私も積極的に取材を進め、目下執筆していますが、このほど詩人の柏木満美(まみ)さんがあんしんの応援歌をお書きになりました。

 あんしんの利用者のみなさんは障がいを抱えた体でありながら、嬉々として喜び、精いっぱい生きておられます。柏木さんはそれをしっかりと捉えて歌にされました。これからあんしんの集いがあるたびに歌われるに違いありません。今日はみなさんにそれをご披露します。

 

得意もある苦手もある

できることを精一杯

手伝えることをよろこんで

あなたのために

わたしのために

 

わらってうたってはたらいて

ありがとうって言われると

心がフッと軽くなる

心がパッと明るくなる

広がるあんしん

あんしん笑顔がふり積もる

花

好きもある嫌いもある

かかわり合って生きてゆく

輝かせよう精一杯

あなたの光

わたしの光

 

わらってうたってはたらいて

ありがとうって伝えると

心がふわっとやわらいで

心がほっと落ち着くよ

広がるあんしん

あんしん笑顔の花ひらく

 

晴れ渡る日も吹雪の日も

今日を生きてる精一杯

愛のことばを伝え合い

あなたも笑顔

わたしも笑顔

 

あんしんって何だろう

あんしんっていい気持ち

やさしくなれる 

笑顔になれる

強くなれる

自分で立って生きていく

あなたと共に生きていく

 

わらってうたってはたらいて

ありがとうって言い合えば

心うるおいやすらいで

夢も希望もあふれ出す

広がるあんしん

あんしん笑顔の春らんまん

柏木満美さん

明紀子ワークセンター写真

写真=マンドリンのコンサートで花束を贈られた柏木満美さん、あんしんを利用している障がい者。居心地がいいのです


平和の祈り

沈黙の響き (その88)

「沈黙の響き(その88)」

母が与えてくれた“あんしん”

 

 

人間の精神的成長にとって、父母の存在は決定的に大きいように思います。

精神的にも肉体的にも私たちは父母がいなければ生まれてきていないし、手取り足取りして育ててくれました。

「自分とは何か?」

と考えるとき、“いのち”のルーツをたどらざるを得ません。

 

ありがたいことに、私は大学で人間学の講座を持っております。半年間に15回の講義をしますが、人間の精神史に大きな足跡を残した思想家たちを採り上げ、彼らによって投げかけられているメッセージを学んでいます。

 

≪内観で深める「自分探し」≫

 

その中で私がもっとも大切にしている授業が「内観について」で、自分のいのちのルーツを探ります。

内観は昭和15(1940)ごろ、大和郡山(やまとこうりやま)で、吉本伊信(いしん。19161988)先生によって始められました。元々は浄土真宗の僧侶の「身調べ」という修行でしたが、吉本先生はそこから宗教的要素を抜き、自分探しや自己実現の方法として確立しました。

 

現在では森田療法と同じく、日本初の心理療法として欧米に広がり、ドイツ、オーストリア、スイスなどに常設の内観研修所が設けられるまでになりました。初めはアルコール依存症の治療が目的で使われましたが、そのうち、この内観療法は自己を確立させる力を持っていることがわかり、現在のように、自分探しや自己実現の方法として用いられるようになりました。

 

大学ではそうした心理療法という学問的な側面も取り上げますが、それ以上に私は学生一人ひとりにとって父や母がどういう存在であるかを掘り下げさせます。知的な分析より、その人にとって父や母がどういうふうに関わっているかを調べさせています。

 

≪母に電話連絡するのを忘れ、とても心配させてしまった≫

 

あるとき、一人の女子学生が母親のことをこう語りました。

「私が小学校3年生のときのことでした。母は仕事に行っていたので、私は小学校から家に帰ってくると、まず母に『無事に帰ってきたよ』と電話をかけることになっていました。ところがその日は雪が降っていて、雪合戦ができるほどに積もったのです。

 

私は母に電話をするのを後回しにして、友達3人で雪遊びに夢中になってしまい、電話をするのをすっかり忘れてしました。母は私から電話が来ないので心配し、学校に連絡をすると、私を探しに急いで帰ってきました。担任の先生はクルマで家まで駆けつけてこられ、家の前で3人がばったり顔を合わせました。

 

母は私を見るなり『ああ無事でよかった!』と抱きしめ、泣きだしてしまいました。それによって私は、母がどんなに心配したのかを知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

その後ある夕方父と話していたとき、父は私より先に死んでしまうと恐怖を覚え、動転してしまいました。そのうち怖くなって涙が出てきたので、急いで台所に駆け込み、晩ご飯の支度をしていた母に抱きしめてもらいました。それによって私の気持ちは落ち着き、安らかになりました。そんな経験があって、母は私に“あんしん”を与えてくれる人だと気づきました。唯一自分があんしんできる居場所、それが母です」

 母親は私たちに安らぎの居場所を与えてくれる人でした。

平和の祈り

写真=赤ちゃんが見せる委ねきった表情


壇上宗謙老師

沈黙の響き (その87)

「沈黙の響き(その87)」

 バラが祈りながら咲いています

 

 

 感性が鈍い私ですが、今年の元旦、家内が玄関に飾った生け花に目が奪われました。ヒノキの葉を背景に、2本の白い葉ボタンが赤い実のサンザシとともに生けてありました。葉ボタンはそれまで何度となく見ていましたが、この朝はなぜか心を揺さぶられました。葉は明らかにキャベツなのに、花芯に向かうに従ってだんだんと色が変わり、まるでバラの花のように華やかです。

 

ふと気がつくと、地球という星は見事なまでにいろいろな花で飾られています。寒中に健気に咲く雪割草、庭に花がない時期に彩りを添える寒ツバキ、春になると庭の縁をシバザクラが彩り、夏になると日差しの中で松葉ボタンが咲き乱れます。暖かい日差しのあるところ、どこでも飾り立てています。

 

それらの花は一弁の花としてそこにあるのではなく、目を輝かせて、私にも語りかけているのです。私はまるで花園のような世界に住んでいることに気づきました。この地球という星は奇跡のような星です。

 

その目くるめき内的経験は、先日Zoom対談した壇上宗謙(だんじょう・そうけん)和尚のサイレント・メディテーション(黙想=坐禅)を思い出させました。

 

≪壇上和尚のサイレント・メディテーション≫

みずみずしさが溢れているような壇上和尚は、毎年カリフォルニア州のサンタバーバラで催されている3日間のサイレント・メディテーションに、講師として7年間呼ばれています。50名あまりの受講生それぞれに1本のバラを渡して語りかけられました。

「あなたが手に持っておられるバラを見てください。可憐な花が、祈りながら咲いていますね」

参加者たちにとって初日にはただの1本の無機質なバラでしかなかったものが、3日間の瞑想の時間を通して、それぞれとバラとの間の隔たりが取れて、豊かな交流がなされていきます。いや交流というよりも渾然一体と溶け合っていくのです。

 

壇上和尚は、バラがミツバチや蝶に誘いかけて蜜をあげ、楽しい交わりを楽しんでいると語られます。バラは見詰めている私たちに対しても語りかけてきます。ただ単にきれいに咲いているというだけではなく、バラが祈りながら咲いていると、まるで歌うように説かれます。

檀上和尚はギターがうまく、ピアノも演奏される方なので、話しっぷりも流れるように音楽的です。そんなところも、アメリカ人に受けているのかもしれません。

 

今アメリカでは、仕事や生活から離れて非日常的な場所で自分と向き合い、心と身体をリラックスさせてゆったりと過ごす場所として、リトリートが注目を集めています。壇上和尚が主宰されるリトリートの参加者たちは、わずか3日間で世界ががらりと変化したことに驚きの声をあげます。

 

私はこのコラムで檀上先生のことを和尚と呼びましたが、和尚というとお寺の境内で子猫を抱いて日向ぼっこをしている初老のお坊さんを連想してしまいます。ここに添付した写真で檀上和尚は素敵な青紫色のスカーフを肩に掛けておられますが、とてもおしゃれなお坊さんです。

 

瞑想は私たちの心の目を開いてくれます。檀上和尚が言われるように、自分は祈りや祝福の言葉に取り囲まれていると目覚めたら、世界はさらにきらきら輝いて見えてくるから不思議です。

 

 ≪毎朝送られる花のメッセージ≫

 話は変わりますが、毎朝フェイスブックで、

「おはようございます。今日は、天にいる母の誕生日。母が好きな嗜好品を口にしたり、母を偲び穏やかに過ごします」

 などという言葉を添えて、すてきな草花の写真を送られてきます。

 

 宝塚に住む加藤由佳(ゆか)さんからの朝のメッセージです。その軽やかな文章に、加藤さんの肩まで届くようなすてきなロングヘアがそよ風に揺れているだろうなと連想します。毎朝その写真やメッセージを見ると、自分のまわりにこんな美しい世界が展開しているのかと楽しくなります。ある日のメッセージはさくらんぼに添えてこんな言葉が添えられていました。

 

「歩いていると幼稚園の庭に、真っ赤なさくらんぼの実が顔を出しています。幼稚園児たちが、さくらんぼを育んでいるからか、実の艶(つや)や色が他のさくらんぼと違うようです。真っ赤なさくらんぼの実を鳥たちも見守っています。彼らは実が色づく時期を一番知っています。

園児たちはさくらんぼの実を鳥たちと分けあうの?

それとも先に園児たちが口にするの? 

どうなのかなと勝手に空想して枝を眺めました」

そのメッセージにさくらんぼの花言葉が添えられていました。

「さくらんぼの花言葉は『小さな恋人』『あなたに真実の心を捧げる』などです」

 

≪闘病生活を余儀なくされた親友へのお見舞い≫

加藤さんがフェイスブックでこういう花や果物のメッセージを送るようになったのは、10年前、アウトドアライフを楽しんでいた友人が白血病で入院してベッドで過ごすようになり、自然の移ろいを知ることができなくなったことからでした。

お見舞いに行くとき、季節の花や果実や道端の花を持参すると、

「病室から外に出られた気がするわ」

 と喜んでくれ、満面の笑みを浮かべてくれたのです。

 

それに励まされて、友人に届けるため自然散策が始まりました。それにつれて由佳さん自身が、就職を機に自然から遠退いて仕事に没頭し、人であることを忘れ、ロボットのようにただひたすら働くだけで、ゆとりがない生活を送っていたことに気づきました。

 

 友人が望む四季の様子を散策していると、自分自身も豊かな気持ちになりました。毎年同じ場所で咲く花を愛で、視点を変えて眺めると、自分も穏やかになれるから不思議でした。

残念ながら彼女は健康を取り戻すことはなく、永遠の旅立ちをしてしまいました。でも、彼女に届けた花だよりはその後も続き、10年経ちました。

 

この花だよりは毎回、

「お出掛けの皆さん、お気をつけていってらっしゃい」

 の言葉で終わります。出勤前、ちょっと爽やかな気持ちになり、すっかりファンになった人が心待ちするようになりました。檀上和尚といい加藤さんといい、自然の移ろいに心を留める人々は気持ちも若々しいですね。

壇上宗謙老師

加藤由佳さん

さくらんぼ

黄色いバラ

写真=私たちを瞑想に誘ってくれる檀上和尚。毎朝花言葉を届けてくれる加藤由佳さん。私たちに天然の美を届ける真っ赤なさくらんぼ