月別アーカイブ: 2022年4月

若葉

沈黙の響き (その99)

「沈黙の響き(その99)」

障がい児を授かったお母さんからのメール

神渡良平

 

 

 いろいろな方々とやり取りしたメールを整理していたら、『苦しみとの向き合い方』(PHP研究所)を出版した平成27年(2015)の秋、ある読者とやり取りしたメールが出てきました。障がいを持って生まれた赤ちゃんを抱え、苦闘されていたご婦人です。当時を思い出して、思わず目がウルウルしました。そのメールを紹介させていただきます。

 

「私のことを覚えてくださっていて、本当に感謝します。障がいを持って生まれた下の子は、もう1歳9か月になりました。障害がわかってから、1年と半年が過ぎたことになります。この1年半はつらくて苦しいものでした。

 

申し訳ないことながら、当時はわが子をかわいいと思えず、そんな自分を責め、周りの同じくらいの子どもを見ると、うらやましくて胸が張り裂けそうでした。毎日毎日泣き、泣かない日はいつになったら来るのだろうと、真っ暗なトンネルの中にいるようでした。こんなに涙を流し、自分と向き合ったことはありませんでした。だんだん卑屈になっていき、自分を責めている自分にはっと気づき、そんな自分がまた嫌になるという悪循環をくり返していました。

 

そんな頃、考えあぐねた末に、神渡先生にメールしました。思いもよらず、親切に応対していただき、やり取りするようになりました。そしてだんだん思い直すようになりました。ひょっとすると、世の中は障がいを持つ子を差別する人ばかりではないかもしれない、と。一番苦しかったときを本当に支えていただいて、ありがとうございました。

 

あれからいろいろな方々との出会いがありました。同じ障害を持つ子どもの母親たちです。障がいを抱えた子どもを産まなければ出会わない方々でした。私も同じ思いをしましたと親身に話を聞いてくださったり、今の辛さを笑いに変えられる日がきっと来ますと励ましてくださったり……。同じ苦しみを経験されている方々でしたから、そんな方々が乗り越えた末に語って下さる話は、涙なしには聞けませんでした。いろいろな方々に支えられて今の自分があると実感します。ようやくあの頃をおだやかな気持ちでふり返ることができるようになりました。

 

まだまだ、下の子を育てることにへこたれそうになる日もありますが、人と人がつながることのすばらしさを以前より感じられるようになりました。先生がおっしゃっていたように、人間はそんなに弱くないのかもしれないですね。最近その言葉が私を奮い立たせてくれています。

今も気にかけてくださってメールをくださり、何とお礼をいっていいかわかりません。勝手ながら、また挫けそうなときは連絡させてください」

 

そんなメールに私はこう返事しました。

「『苦しみとの向き合い方』は苦しみの克服の仕方でもなく、幸せの呼び込み方でもなく、苦しみとの向き合い方について書きました。私自身のつらい人生経験からすると、苦しみから逃げないで、正面から向き合ったとき、それが私たちを次の次元へと導いてくれるもののようです。状況は以前とまったく変わっていないのに、喜々として取り組めるようになっているから不思議です。

 

この本に、罪を犯した子どもたちの更生に尽力されていた辻光文(こうぶん)さんのことを書きました。辻さんはあるとき、子どもたちのいのちを拝むことの大切さに気づき、人知れず合掌されるようになりました。すると荒れていた子どもたちが落ち着きを取り戻し、素直になっていきました。光文さんはそんな姿勢を詩『生きているだけではいけませんか』に表現されました。

 

そして誰言うともなく、難しい子どもは光文さんに預けたらいいと言われるようになりました。辻先生の目覚めはあなたへの応援歌かもしれませんね。きっと励まされますよ」

 

それからしばらくして、そのご婦人からメールが届きました。

「辻光文先生についての文章を読ませて頂きました。ただただ、涙が流れました……。人のためにここまでできる方がいらっしゃるということに驚き、感謝の気持ちでいっぱいになりました。光文先生の詩に重度の障がいを持つ私の次女を重ね合わせて読み、涙が止まりませんでした。

 

健常な長女を育てていたときは、少しでも人の役に立つ子になって欲しいと願い、親となった自分のさらなる成長を願って、精一杯頑張っていました。でも、次女の障害がわかると、少しでも人のお役に立ちたいという私の価値観も揺らぎ始め、申し訳ないことに次女の存在を否定しました。この子は生きていて何の価値があるのだろうか?……と、思い悩みました。

 

人の役に立つどころか、一生人のお世話になって生きて行かなければいけない子……。

そんな子を育てることに価値があるのだろうか?

産まなきゃよかった……。

この子さえいなければ……私は幸せだった……

などと、思い悩みました。以前頑張っていた分だけ、次女を否定してしまったのです。次女を育てることについて、価値が全く見いだせませんでした。以前の私は幸せの日々の中での、しょせんきれいごとにしか過ぎなかったのだと滑稽にすら思えました。

 

私は光文先生の『生きているだけではいけませんか』の詩に合いたかったのだと思いました。詩の中で光文先生が問いかけておられたように、私は人の役に立っているという思いの中に、いつしか傲慢な思いがひそんでいたのです。生きていて人に迷惑をかけない人っていやしないのに、そのことを忘れていました。

 

でも光文先生に「生きていて、人に迷惑をかけない人ってありますか?」と問われてハッとしました。そのことに気づかせていただいて、感謝の気持ちでいっぱいです。これからは、もっともっと次女のいのちの輝きを見ていきます。

 

生きていることは素敵なことなのですね。それだけでいいのですね。今は眠っている二人の娘にたくさん感謝したいと思います。先生、ありがとうございました。明日もニコニコ笑顔で過ごして行きたいと思います」

 

障がいを持ったお嬢さんがお母さんの心の目を開いてくれたようです。私はますます、この世で起きる出来事は意味がないものはなく、ただただ感謝して受けるだけだと思わされた次第でした。

若葉

 写真=草花を育てる小人の妖精たち


ひまわりウェディング2009-7-26

沈黙の響き (その98)

「沈黙の響き(その96)」

ひまわり畑の真ん中での結婚式

 

 

平成27年(2015)4月、新潟県十日町市の支援センターあんしんに入社することになる久保田学さんは、町の会合でしばしば樋口果奈子さんと顔を合わせました。果奈子さんは支援センターあんしんを切り盛りしている中心的な女性です。笑顔がふっくらとして愛らしく、謙虚な女性ながら、信念がある人です。

 

一方、学さんは同じ新潟県の南西部、日本海に面した上越市の出身です。沖合にはその昔、親鸞や世阿弥が流されていたという佐渡島も横たわっていて、海岸に立つと漂泊の俳諧師芭蕉が詠んだ、

 

  荒海や佐渡に横とう天の川

 

 というダイナミックな光景が展開しています。そうした土地で育った久保田さんは、学生時代から障がい者の問題に関心があったそうです。

 

「ぼくはスクールカウンセラーになりたかったので、福祉系の大学へ進学したんです。大学で知的障がいや精神障がいについて学ぶにつれ、それらの方々を支援する施設で働きたいと思うようになりました。口先だけの、頭でっかちにはなりたくなかったんです」

 

 学さんは勤務していた精神病院で、あるときこんな現実に直面しました。

「ある病院でソーシャル・ワーカーをしていたとき、Aさんという患者さんがおられました。生活能力はあるにも関わらず、少し幻聴が聞こえたり、不思議な行動をしたりされるので、家族から理解されず精神病院に押し込められ、やむなく40年以上も入院しておられました。適切な支援が受けられたら、そんなことにはならなかっただろうにと思うのですが、すでにときは経っていました……」

 

談笑するにつれ、2人は次第に意気投合するようになりました。学さんは高校、大学でバスケットボールをやっており、今でも社会人リーグでプレーしているので、がっちりとして精悍な雰囲気が信頼感を抱かせます。それに障がい者の手助けになりたいという同じテーマを持っています。果奈子さんは学さんをだんだん結婚相手としても意識するようになり、将来を約束するようになりました。

 

 2人の結婚式は一風変わっていたと小耳にはさんでいたので、学さんにそのことを聞くと、学さんは自分たちの結婚式の話をするなんていささか照れるなあと言いながら、様子を語ってくれました。

 

◇障がい者たちが祝ってくれた結婚式!

「私たちは当時勤めていたお互いの施設を利用してくださっている障がい者を結婚式に招待したかったんです。あの人たちはそういう晴れの場に招待されることはあまりありませんから、よけいそういう機会にしたいと思いました。でも、通常の結婚式では着ていくものとか何だとか、本人たちが気を遣うので、気軽に来ていただけるものにしたいなと思いました」

 

すると新潟市の国際ホテルブライダル専門学校の卒業生が、卒業作品として、隣町の津南町にあるひまわり畑の真ん中で結婚式をやろうと企画して募集していたのです。津南町は広大なひまわり畑が広がっており、全国から観光客が訪ねてくるスポットにもなっています。

 

「ひまわり畑の中での結婚式! これは気さくでいい! これだったら、ノーネクタイのカジュアルな服装でいらっしゃいと呼びかけられる」

と、早速応募しました。すると久保田さんたちの熱意が伝わったのか、10組の応募の中から2人に白羽の矢が立ちました。こうして平成21年(2009)7月26日、多くの利用者さんが、ひまわり畑の真ん中で催された結婚式に参列しました。もちろん、われらのアッコちゃんも参列し、2人を祝福してくれました。

 

ところがそこで予想もしていなかったサプライズが起こりました。あたり一面の黄色いひまわり畑のなかで、障がい者たちがみんなで合唱したのです! 障がいの程度によってちゃんと歌える人もあれば、口だけパクパクの人あります。日頃、ワークセンターと自宅やグループホームの往復で単調になりがちだっただけに、まるでピクニックみたいです。

それに日頃お世話になっている2人の結婚式ですから、これは最高の喜びです。みんなが心から祝福してくれました。学さんは相好を崩して喜びました。

 

「いやもうめちゃくちゃ感動しました。ひまわり畑の中の結婚式が充分サプライズだと思っていたのに、それ以上のサプライズが起きたのです。参加したみなさんが誰よりも解放され、喜んでおられました」

 

 結婚式が終わって一段落すると、学さんは果奈子さんにどうしても言っておきたいことがあると切り出しました。

「以前、アッコは私の“福の神”だと気がつき、それから私の人生は霧が晴れたように明るくなったわって話していたよね。その同じ言葉を今ぼくも言いたい。アッコちゃんがぼくらを引き合わせてくれ、キューピッドの役割を果たしてくれていたんだ。アッコちゃんはぼくにとっても“福の神”になったよ」

 結婚して2人は自分たちの原点を再確認したのでした。

 

ひまわり畑というと、私は往年のイタリア映画の名作『ひまわり』を思いだします。

今から52年前、映画の冒頭のシーンで、地平線の彼方まで続くひまわり畑の中を、第二次世界大戦に兵士として送られ、戦後も帰ってこない夫(マルチェロ・マストロヤンニ)を探してジョバンナ(ソフィア・ローレン)が歩きます。

 

「この広大なひまわり畑のどこかに、夫の遺体が眠っているのかも……」

 と嘆き、そのシーンに被せるように哀愁のメロディが流れ、観客の涙を誘いました。戦争で引き裂かれた男女の悲しみを描いた不朽の名作です。あのシーンが撮影されたのはウクライナの果てしなく続くひまわり畑でした。

ひまわりウェディング2009-7-26

津南のひまわり畑

写真=みんなが祝福してくれたヒマワリ畑での結婚式 津南町のひまわり畑 


神戸淡路大震災1 

沈黙の響き (その97)

「沈黙の響き(その97)」

前田敏統さんにとってのボランティア元年

神渡良平

「沈黙の響き」(その53)に、山口市の友人前田敏統(としのり)さんがご自分のニュースレター「養黙」に書かれた「セキレイが示した母性本能」を転載したところ、多大な反響がありました。

しかも臨済宗円覚寺派の横田南嶺管長がラジオ番組で前田さんとセキレイの母鳥の話を採り上げて、華厳経の教えにからめて説いてくださったので、前田さんのことを知らない人はないようになりました。

その前田さんが「養黙」3月号に掲載された文章が心に響くものがあったので、許可を得て転載しました。

「平成7年(1995117日、阪神淡路大震災が起きたとき、私は仕事を辞めていたので、復旧に駆けつけることができましたが、これが私の生き方を180度変えることになろうとは思いもしませんでした。

 ある朝、テレビの報道をぼんやり眺めていると、焼け跡で呆然とたたずむ老人に、リポーターが訊ねていました。

『どうしたんですか? ボーっとしていて』

 すると、老人は張り裂けそうな思いで、

『わしは女房を見殺しにしてもうた!』

 と答え、泣き崩れました。

『わしら夫婦は2人とも潰れた家の下敷きになった。わしは何とか這いだし、家内を助け出そうとしたが、崩れた家の下敷きになっていて、引きずり出すことができない。まわりの人たちや消防隊も懸命に努力したが、崩れ落ちた材木はびくともしなかった。消防隊は救助可能な人から先に助け出すしかないので、他の人の救助に取り組んだ』

 消防隊が去ったあと、老人は血だらけの手で奥さんを救い出そうとしましたが、どうにもなりませんでした。そのうちに燃え盛る火の手が迫り、熱さが背中を焦がし始めると、家内が叫びました。

『アンタ! ありがとう。私はもういいから、アンタは早く逃げて!』

 わしは目の前で家内が焼け死ぬのを、泣き叫びながら、見守るしかなかったんや』

老人はそんなやるせない話をテレビのリポーターにして、大粒の涙をこぼした……。

 その報道を見ていて、私は自分を恥じました。いや自分をさげすみさえしました。

 私には家も車も無傷のままあるし、かたわらには元気な妻もいる。なのに私はぬくぬくと惰眠をむさぼっているではないか――。

と、過去のことがさまざま心をよぎります。仕事上の不満からかっとなって会社を辞めてしまい、収入が無くなって家内に辛い思いをさせてしまいました。ああ、何と情けないことか――

(よし、復興の手伝いに行こう。あの老人のように、後悔しちゃいけない。行くしかない! 行くべきだ!)

 と決心しました。しかし有り金だけでは足りないので、わずかな貯金まで下ろし、取り急ぎ電車に飛び乗って神戸に向かいました。でも、電車の中で私は家内に詫びました。なけなしのカネを持ってきてしまい、家内にはまた申し訳ないことをしてしまった――。

紙面が足りないので詳しいことは書けませんが、神戸淡路大震災の復興で汗を流したことは、私ども夫婦2人のその後の生き方を変えた出来事となりました。

 その後、中越地震その他、いろいろと大地震があり、その都度自分にできる範囲で協力してきました。神戸には結局10年の援助を続けてきました。その力はとても小さいものでしたが、精いっぱいのことをさせてもらいました。

 阪神淡路大震災は<ボランティア元年>と呼ばれ、後の人々に引き継がれていき、東北大震災でも生き続け、多くの人が復興に駆けつけ、汗を流しました。貧乏人の私ができることは、ただ汗を流すことしかありません。でもその汗をありがたいと思ってくださる方がいるかぎり、私は現場の復旧で汗を流すつもりです」

 前田さんはニュースレターをそう締めくくっておられました。

 読み終わった私の心に、さわやかな春風が吹いてきました。リビングルームから窓越しに、黄色いレンギョウと真っ白なユキヤナギが咲き誇っているのが見えます。そのユキヤナギの花が春爛漫の風情をいっそう引き立て、前田さん夫妻が被災地で流される汗を称えているようでした。

神戸淡路大震災1 

神戸淡路大震災3 

パンジー

 写真=阪神淡路大震災とパンジー


戦場のピアニスト

沈黙の響き (その96)

「沈黙の響き(96)」

ウクライナ危機と「戦場のピアニスト」

神渡良平

 

 

 この現代に、軍事大国ロシアが意に従わない弱小国ウクライナに有無を言わせず攻め込み、国土を蹂躙するというという信じられない蛮行が行われています。テレビでもSNSでも連日悲惨な状況が報道されており、怒りを覚えています。

プーチン大統領は核戦争も辞さないと脅しをし、「反抗できるものならやってみろ!」と言わんばかりです。私はロシアの強権的主張が世界の現行慣習を蹂躙するのを見て、

「これが、力が支配している国際政治の現実なのか!」

 と唖然とし、改めて毅然たる態度を貫かなければならないと覚悟を決めました。

 

 そんな中、2002年のカンヌ映画祭でパルムドール賞(最優秀作品賞)を受賞し、一躍世界の注目を浴びた『戦場のピアニスト』(ロマン・ポランスキー監督)を観ました。この映画は実在したユダヤ系ポーランド人の著名ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を映像化したものです。『戦場のピアニスト』はアメリカのアカデミー賞では7部門にノミネートされ、うち監督賞、脚色賞、主演男優賞の3部門で受賞しました。

 

 この映画を観て、ロシアに蹂躙されて廃墟と化したウクライナが、77年前、ナチス・ドイツに侵略されたポーランドとまるで同じだったと知りました。

 

映画はポーランドのワルシャワで生れ育ったユダヤ人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが首都ワルシャワにあるラジオ局のスタジオで、ショパンのノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)を弾いているところから始まります。楽想指示に「レント・コン・グラン・エクプレシオーネ」(遅く、とても情感豊かに)と書かれているように、静謐(せいひつ)な主旋律を抒情的な雰囲気をかもし出すアルペジオ(分散和音)が飾って、静かな夜のもの思いにいざなっていきます。

 

ところが突然ラジオ局がドイツ空軍によって爆撃され、録音が中断されました。19399月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発したのです。ワルシャワはドイツ軍に占領され、ユダヤ人はダビデの星が印刷された腕章をつけることが義務付けられ、喫茶店や公園への立ち入りも制限され、ナチス親衛隊の暴力にさらされました。

 

1940年後半には、ナチス・ドイツはユダヤ人問題の「最終的解決」のためと称して、ヨーロッパ各地から列車でポーランドにあるアウシュビッツやトレブリンカ、マイダネクの絶滅収容所に運び、ガス室で殺戮し始めたのです。シュピルマンも絶滅収容所行きの家畜用列車に乗せられるところでしたが、友人の機転で救われました。

 

家族から引き離され、一人とり残されたシュピルマンは、労働力として残された成人男性たちに混じり、強制労働を課せられました。慣れない肉体労働耐え切れず倒れましたが、仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回され、またしても過労死をまぬがれました。シュピルマンは監視の目の盲点を突いて、ドイツ当局が利用する病院や警察署の向かいにある隠れ家にひそみました。

 

ある日、廃墟の中に立つ一軒家で食べ物をあさっていると、ドイツ軍将校と鉢合わせしてしまいました。将校は彼の素性を尋問し、彼がユダヤ人でピアニストであることがわかりました。

 

そこで1階の居間に残されていたピアノを弾いてみるよう強要しました。シュピルマンは躊躇しながらピアノの前に座り、ショパンのバラード第1番ト短調を弾き始めました。瞑想するような静かな旋律が流れ出しました。演奏が終われば、射殺されることは明白です。シュピルマンは演奏するに連れて我れを忘れ、夢中になって鍵盤を叩きました。ピアノ曲は窓から廃墟と化した街に流れていきました。

 

その演奏に心を動かされたドイツ人将校は、非凡な才能を持ったピアニストを助けたいと思いました。ショパンの名曲がシュピルマンの命を救ったのです。将校が部屋を去ったあと、シュピルマンはピアノに倒れ伏して泣き崩れました。

 

件のドイツ人将校は周囲の目を盗んで屋根裏部屋に食料を差し入れたとき、そっと耳打ちしました。「ソ連軍の砲撃が迫っている。ドイツ軍が撤退し始めた。あと10日もすればワルシャワは解放されるはずだ」。

 

しばらくすると1台のトラックが拡声器でポーランド国歌を放送し、ついにポーランドは解放されました。6年間に及んだ逃亡生活がようやく終わったのです。ワルシャワ・ゲットーに押し込められたユダヤ人は36万人でしたが、解放されたときはわずかに20人たらずになっていました。

 

 戦後、シュピルマンはピアニストとして活動を再開し、国際的バイオリン奏者ブロニスワフ・ギンペルとのヂュオで、世界各地で2500回を超えるコンサートを開催しました。数多く作曲も手がけ、彼が書いた多くの歌は人気スタンダード・ナンバーになりました。1964年にはポーランド作曲家アカデミーの会員に選出され、名声の内に20007月、88歳で亡くなりました。

 

 ロシアのウクライナ侵攻は私たちを暗澹(あんたん)たる気持ちにします。しかし、『戦場のピアニスト』の随所に流れるショパンの静謐なノクターン第20番嬰ハ短調や、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」などは私たちの心を深いところで癒してくれました。ポランスキー監督はおぞましい現実の中になお“救い”があることを示し、高らかな人間讃歌を歌いあげました。

戦場のピアニスト

ウクライナの惨劇

写真=『戦場のピアニスト』の主人公シュピルマン。ウクライナの惨劇。


2022年4月の予定

日時 演題 会場 主催団体 連絡先担当者

4/27(水)
19:00~21:00

 

天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想

エルガーラ7階 中ホール
福岡市中央区天神1-4-2
TEL 092-711-5017
・開催形式:対面とオンラインのハイブリッド
詳細はコチラ

一般社団法人
福岡中小企業
経営者協会

地域人材育成員会 事務局 鈴木未来(すずきみき)
MAIL suzuki-m@chukeikyo.com
TEL 092-753-8877

講演会「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」のご案内

4月27日(水)に福岡で開催される講演会に登壇します。

オンライン(Zoom)での参加が可能ですので、遠方の皆様もぜひご視聴いただければ幸いです。

 


【ご案内_神渡良平先生講演会】

 

【地域人材育成講演会「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」のご案内】

 

◎日時:2022年4月27日(水)19時00分~21時00分

 19:00~開会 19:10~講演会 20:40~質疑応答 21:00閉会(予定)

◎演題:「天に預ける――西郷隆盛に学ぶ天の思想」

◎開催形式:対面とオンラインのハイブリッド

◎講演会場(対面):エルガーラ7階 中ホール

◎住所:福岡市中央区天神1-4-2(TEL:092-711-5017)

◎オンライン配信方法:Zoom

◎会費:3,000円

※対面・オンライン共に参加費は一律です。

 

◆申込期限:2022年4月13日(水)まで

◆申込方法:下記URLよりGoogleフォームにてお申し込みください。

 

▽Googleフォーム「4月27日(水)開催【地域人材育成講演会】申込フォーム」

 https://forms.gle/jTh3WdqsptJhwkEo6

 

〈お問い合わせ〉

◎主催:一般社団法人福岡中小企業経営者協会

◎担当:地域人材育成員会 事務局 鈴木未来(すずきみき)

◎E-mail:suzuki-m@chukeikyo.com

◎TEL:092-753-8877

 

※ ご案内のPDFはコチラ → 【ご案内_地域人材育成講演会「天に預ける」】


いのちをありがとう

沈黙の響き (その95)

「沈黙の響き」(その95

 〝いのちの讃歌〟を歌おう!

 

 

“いのち”はどこから来るのでしょうか?

“いのち”は宇宙からやってきます。別な言い方をすると、人智を超えたところからやってきます。その“いのち”は心地よいと活性化し、輝きだします。

 

人は、人から愛され守られているという実感があると、心が安らかになるものです。もしそこに暗い表情の人があったとしても、寄り添ってお世話したら、その人はいつしか生き生きとなり、その人の個性が花開いていきます。草花が陽の光を浴びると輝きだすのと同じです。

 

私はしばしば「宗教的な心」に言及しています。前回まで2回にわたって紹介した瞬(まばた)きの詩人水野源三さんはキリスト教徒なので、信仰上のことも取り上げました。しかし、それはキリスト教が仏教その他に比べて一等優れているという意味ではなく、神秘的なものに向かい合ったとき、自ずから湧き上がってくる“畏敬”の念を大切にするという意味で採り上げました。

 

畏敬の念を持つと、人智を超えたものに“ゆだねる”という心境になります。するといま取り組んでいるものも「天と自分との共同作業」で成就されるという強い信念が生まれます。この宗教的な心があらゆることの遂行に必要だと思うのです。古来からしばしば、

 

人事を尽くして天命を俟(ま)つ

 

という心境が取りざたされてきました。人間の側のことは死力を尽くし、やるだけのことをやり終えると、あとはさばさばし、人智も自然をも超えた何か神秘的な力により頼む――他力にゆだねるという心境が訪れると言います。私はこの心境をさして、「宗教的な心」と言っています。

 

私はこの半年間、新潟県十日町市でNPO法人支援センターあんしんを運営しておられる樋口功会長とそのご家族のことを書いてきましたが、それをPHP研究所が『いのちを拝む――雪国で障がい者支援の花が咲いた』として出版してくださることになりました。

 

「あんしん」の機関車として20年間がんばってこられた樋口さんのご家族のことを執筆していてつくづく感じたのが、人智を超えた不思議なものに対する畏敬の念を抱いておられることでした。障がい者たちの“いのち”に畏敬の念を持っておられるから、そこから“いのちの讃歌”が湧き上がってくるのです。「あんしん」に流れている絶対的に肯定的な雰囲気はそこに依拠しています。

 

障がいを持った人が表情を失い、暗い陰が射しておられるとすると、こんな申し訳ないことはありません。障がい者たちにご自分の“いのち”を発露させ、輝いてくださるために、何かのお役に立ちたい――障がい者を支える「あんしん」の職員の間にあるのはそんな気持ちです。

 

私は樋口さんたちがたどってこられた道を取材しながら、障がい者のケアの問題は、実は私たちの人間観と密接に関わっていると思いました。障がい者のケアの問題は“いのちを拝む”以外の何物でもありません。いや人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。

 

それに先鞭をつけ、血が出るような努力をして道を開いてこられた樋口さんたちに心から敬意を表します。そして誰一人として見捨てられることがない持続可能な社会づくりに、私も参加できることを心から感謝します。

いのちをありがとう

写真=みずみずしい“いのち”があふれている草花