月別アーカイブ: 2022年8月

澤田美喜と子どもたち

沈黙の響き (その116)

「沈黙の響き(116)」

エリザベス・サンダース・ホームは大磯の発展の阻害要因か?

神渡良平

 

◇「こんな女に誰がした……」 捨て鉢な恨み節が流れる街

 昭和20年(1945830日、米軍や英国連邦軍が上陸を開始したわずか2時間後、36歳の母親と17歳の娘が米兵に襲われ、強姦されました。しかし、当の米兵は治外法権を適用され、何の咎めも受けることなく釈放されました。

敗戦の事実を否応なしに突きつけられた惨めな事件でした。

 

 空襲によって焼け跡になった日本は食べていけませんでした。

中央西口を出て薄暗いガード下に入ると、パーマネントをかけ、厚化粧をした夜の女たちが、米兵を求めてたむろしていました。近くには必ずといっていいほど、足のない傷痍軍人たちが松葉杖をつき、あるいは地べたに座って物悲しいアコーディオンの曲を奏でていました。それが敗戦の哀しみをいっそう増幅しました。

 

どこからか聴こえてくるラジオからは、「ラク町お時」こと西田時子の捨て鉢な恨み節、

「こんな女に誰がした……」

 が流れてきます。家族も家もすべて失い、焼け跡で夜の女として生きるしかない身を嘆いて歌うそのブルースは、パンパンと呼ばれさげすまれた女たちの呻き声でした。それは有楽町のガード下だけではなく、新橋でも品川でも横浜でもどこでも見られる光景でした。

 

 米海軍が根拠地とした横須賀には「どぶ板横丁」と呼ばれた赤線地帯がありました。マスコミはGHQの手前、表立っては書けませんが、ひそかに「どぶ板横丁」を「性の防波堤」と呼んでいました。乱脈な性行為の末に生まれる混血児に手を焼き、横須賀市が街娼婦を一斉検挙したところ、2500人が検挙されました。

 

◇美喜さんへの口汚い中傷

 そんな世相のなかで、澤田美喜さんはエリザベス・サンダース・ホームを運営したので、大磯の町では拒否反応が起きました。口さがない人たちが美喜さんの陰口を叩きました。

「財閥の令嬢がよりによって混血の孤児を集めているんだって。敵国兵が生み落とした子じゃないか。ほっておけばいいんだよ」

「なぁにあれは岩崎家の別荘を使いたいために、隠れ蓑として混血孤児を利用しているだけだよ」

 そんな声が聞こえてきます。世の中には自分で責任を取ろうとはしない評論家がごまんといました。

 

「占領軍に別荘を接収されるのを恐れて、孤児院という看板を掲げているだけだよ。口八丁に手八丁、嘘で固めた企画だね」

「エリザベス・サンダース・ホームなんて、三菱財閥の令嬢の一時の道楽ですよ。一年もしたら放り出すでしょ」

 噂話をする人は鼻でせせら笑っています。

「それにしても、あの混血児たちは生きていても苦しむだけなんだから、いっそ小さいときに死なせたほうが慈悲というものだね」

「自分でさえ食べるのに必死なのに、よくも戦争孤児を引き受けて育てるなんていう余裕があるな。金持ちの道楽、ここに極まれりと言うべきか」

 などと、言いたい放題でした。

 

実はGHQにとっては米兵と街娼(がいしょう)との間に生まれる混血児は頭痛の種でした。性道徳の紊乱(びんらん)そのもので、米軍がこの不道徳をもたらしたと言えます。したがって大磯のエリザベス・サンダース・ホームで百人を超す混血児たちが養育されているのは由々しい問題でした。GHQ内部ではエリザベス・サンダース・ホームを不許可にして、混血児たちはできるだけ目立たないように全国に散らばして育てるべきだという意見もありました。

 

 GHQの意向は当然神奈川県にも大磯町にも伝わっており、行政は協力できないと、陰に陽に執拗な嫌がらせをしました。そういう空気が伝わって大磯町にも、エリザベス・サンダース・ホームが活動しているのは容認できないと険しい雰囲気がありました。

澤田さんが町を歩いていると、うしろから、

「やーい、パンパンハウスのマダム! 日本人の面汚しめ。何でそこまでアメリカのご機嫌を取るのか。くそったれー、恥を知れ」

 と、罵(ののし)られました。

 

暗い夜道ではどこからともなく、石が飛んできました。列車内では美喜さんが乗っていると気づくと、これ見よがしに大声で叫ぶ人もありました。

「大磯町の発展を邪魔しているのは、エリザベス・サンダース・ホームだ。あの岩崎山はダイナマイトで吹き飛ばして、駅前から白砂の砂浜にまっすぐ出られるように道を付け、大磯ビーチとして宣伝し、しっかり都市計画すべきだ」

 

 美喜さんが黒い子を抱いて列車に乗っても、席を譲る人はありません。それどころか、まわりにたかって通路をふせぎ、子どもたちの耳に入れたくない「クロンボ」だの「合いの子」だのさげすみの言葉を投げつけました。

 

◇エリザベス・サンダース・ホームは児童を虐待している?

 エリザベス・サンダース・ホームの子どもたちが41人、百日ぜきに感染して寝込んだことがありました。そのうち22人が肺炎を引き起こし、澤田さんや保母たちは寝ずに看病しました。しかし、その看病もむなしく、とうとう7人が亡くなりました。7つの小さな棺桶が運び出され、葬儀場へと向かいました。

 

 それを目撃した市民の中に、夜陰に紛れてホームの門の壁に、

「寿(ことぶき)産院」

 と張り出して、嫌がらせをする人がありました。寿産院事件とは東京・牛込にある産院の経営者夫妻が預かった120人余りの乳児を殺し、養育費や配給品を着服していたことが発覚して問題になった事件で、それに引っかけてエリザベス・サンダース・ホームを非難したのです。

 

 澤田さんはその7名の犠牲者の親に連絡を取り、遺骨を引き取ってくださいとお願いしました。でも引き取りに来た母親は一人もありませんでした。再度連絡して、

「そちらの墓地に埋葬していただけませんか」

 と、お願いしても、

「親もわからない混血児の遺骨をうちの墓に納めるなど、先祖は絶対に認めません」

 と、断られました。娘がこっそり私生児を生んだ不始末はまったく棚に上げて、素知らぬ顔をされました。やむなくエリザベス・サンダース・ホームの納骨堂に収めましたが、美喜さんはこのときほど亡くなった子どもたちを愛おしく思ったことはありませんでした。

 

◇泣く子も黙るGHQに談判した美喜さん 

 日米戦の勝利を誇る占領軍にとって、占領の落とし子として生まれた混血児に触れられることは痛いことでした。だから、サワダは混血児問題で反米をあおり、左翼や共産党に恰好な材料を提供していると非難されました。

そうしたころ、美喜さんがアメリカに滞在していたころの友人たちが寄付金を送ってくれました。美喜さんはその寄付金で清潔なベッドを購入して子どもたちを寝かせました。

 

 するとそれがGHQの幹部夫人たちの癇に障ったらしく、

「孤児たちをベッドに寝かせているんですって? それは贅沢というものよ。孤児たちは日本人らしく、床にごろ寝をさせたらいいわ」

 と、非難されました。

 それが回りまわって美喜さんの耳に入りました。途端に美喜さんはカチンと来ました。

娘時代から負けん気の強い澤田さんは、当時全盛を誇っていた名横綱にならって「女梅ケ谷」とか、三菱財閥の創立者岩崎彌太郎の孫娘であることから「女彌太郎」とも呼ばれていました。その負けん気でGHQ経済科学局長のマーカット少将や、渉外局のウェルチ大佐に抗議に行きました。

 

「泣く子も黙る占領軍」と恐れられた時代です。日本人は首相以下、占領軍の意向にひれ伏して口をつぐんでいた時代に、これほど真っ正面から抗議する人はそうそういませんでした。美喜さんを「三菱財閥の令嬢のわがまま娘」と非難する人もありますが、この体を張った抗議は誰も非難できません。正真正銘本気だったからこそ、GHQ内部でも日本聖公会の幹部の間でも、美喜さんを支持する人が多かったのです。

 

 私はこの稿で「進駐軍」という呼称を使わず、あえて「占領軍」と書きました。それには理由があります。GHQは「占領軍」という名称は強すぎるので「進駐軍」と呼ぶよう指令しました。「占領軍」という強い語感を消して「進駐軍」としたのです。そこで私はあえて「占領軍」という呼称に戻して、当時の雰囲気を再現するように努めました。

 

◇地獄に仏――善意の人々が寄せた密かな支援

 美喜さんが乳児に飲ませるミルクがなくて困り果てていたとき、夜遅く米軍のジープで大きなミルク缶4ダースが届けられました。旧知のグルー元駐日アメリカ大使がペニシリンを送ってくれたこともありました。

 

 その夜美喜さんはホーム内の聖ステパノ礼拝堂で泣きながら、神に感謝しました。

「主イエスよ、あなたは私たちが何を必要としているかご存知でした。お腹を空かして泣いている乳飲み子に替わって、心から感謝いたします」

 “大いなるもの”に捧げる絶大な信仰があるからこそ、保母たちはみんなついて行ったのです。

澤田美喜と子どもたち

写真=澤田美喜さんと混血孤児たち


澤田美喜2

沈黙の響き (その115)

「沈黙の響き(115)」

GHQと闘って孤児院を開いた澤田美喜さん

神渡良平

 

◇大磯にパンパンの子どもを収容する施設をつくらせるな!

 澤田美喜さんはようやくGHQや日本政府の了承を取り付けて、エリザベス・サンダース・ホームを開設したものの、思わぬ障害となったのは地元の反応でした。

 

「岩崎家の別荘にパンパンの子どもを収容する施設をつくるとは何事か! 奴らは敵兵の子ではないか。高級別荘地としての大磯のイメージがけがれる!」

 と、反対運動が起きました。混血孤児など国辱以外の何物でもないというのです。混血孤児に罪はなく、誰かが面倒見なければならないというのに、です。前門の虎、後門の狼とはこのことです。次から次に新たな問題が出てきました。

 

その間も、生きていくのに疲れ果てて、子どもと心中する一歩手前まで行っている若い母親が、澤田さんを訪ねてきて、涙ながらに子どもを託していきます。澤田さんはそんな母親の頼みを一人たりとも拒否しませんでした。いや、拒否できなかったのです。

 

 それに列車の中や駅の待合室、公園、道ばたに紙くずのように捨てられた混血児が、ホームに連れてこられます。

髪が縮れている……、

色が黒い……、

青い眼の混血児だ……

 

そんな理由で捨てられた孤児が大磯の町だけでも20人を超えました。澤田さんは独り臍(ほぞ)を噛み、受けて立ちました。

(これは敗戦の悲劇が生み出したものだ。避けては通れない!)

 美喜さんは意地でもこの問題から逃げるものかと腹をくくりました。やはり、土佐の異骨相(いごっそう)の血が流れています。受けて立つと決めたからにはやり抜くだけです。

 

◇昼はオニババ、夜はマリア

 それからますます、目に見えないいろいろな圧力が澤田さんの頭上に火の粉のように降り注ぎました。政府からもGHQからも圧力が、ホームを投げ出して混血児たちは全国に散らしてしまえと、手を変え品を変えて襲いかかってきます。しかし、澤田さんの闘志はますます燃え上がるばかりです。

 

(何おっ、敵はそう来るか!)

 と意地が出て、最後まで闘う決心をしました。どんなに波風が厳しかろうと、子どもたちを守り通すことに命をかけようと心に誓いました。

 

 一日の闘いが終わって子どもたちが寝静まると、澤田さんはくず折れるようにして、南海に散った3男晃(あきら)君の戦死を悼んで建てた聖ステパノ礼拝堂に行き、壁の十字架の下に膝まずいて涙のうちに祈り明かしました。

そこには美喜さんが長年かかって集めた、日本最古と伝えられる踏み絵の版木だとか、細川ガラシャ夫人の遺品である白磁のマリア観音など、キリシタンの遺物が多数収められています。それらの歴史的遺物に囲まれて祈りのときを過ごしました。

 

 美喜さんにとって十字架のイエスだけが心の支えでした。十字架で処刑された長崎の26人の隠れキリシタンたちたちが、讃美歌を歌いながら昇天していった姿を涙ながらに思い浮かべ、

(私も負けません!)

 と、歯を食いしばりました。澤田さんにとってホームを運営することは、宗教上の闘いでもあったのです。

 

 長年、美喜さんの秘書と運転手を務め、美喜さんの死後、澤田美喜記念館の館長となり、朝夕はいつも、記念館の入り口近くにある鐘をついていた鯛茂(たいしげる)さんは澤田さんを、

「ママちゃまは、昼間はオニババ、夜はマリアでした」

と回顧しています。歯に衣を着せない鯛さんらしい率直な表現ですが、ある意味では美喜さんの人柄を的確に表現しています。敵対する人が多い施設を運営していくには「オニババ」にならなければやっていけなかったでしょうし、それだけに夜、礼拝堂にこもって一人祈りのときを過ごし、聖母マリアにいやされていたのです。

                                                       

◇手を差し伸べてくれた支援者たち

 GHQの中には、夫のニューヨーク派遣に伴って行ったとき以来の友人もあり、同じ聖公会やメソジスト教会の信者もあり、その人たちが何かと手助けしてくれました。彼らが日本ではなかなか手に入らないミルクや医薬品、古着をこっそり送り届けてくれました。

 

 また若い軍医が夜遅く、孤児たちを診察してくれ、

「私はクリスチャンとしてお手伝いをします」

と、進駐軍のあり余る薬品を使って治療してくれました。回虫を持っていない子はないので虫下しはよく効いたし、疥癬(かいせん)などのしつこい皮膚病に米国製の薬品は効果があったので大変助かりました。ところがその軍医は3か月後、上官に呼びつけられ、転属させられてしまいました。

 

 あるとき、シカゴの裕福な未亡人から、4500ドル寄付したいと申し出がありました。ホームの経済事情からすると、夢のような大金で、干天の慈雨のような申し出です。みんなで大喜びしていると、シカゴから短い電報が届きした。

「日本のある筋から忠告されたので、送金を見合わせます」

 というのです。またか! 悔し涙に暮れざるを得ませんでした。

 また米国からの援助物資であるララ物資を美喜さんが転売しているという噂も流され、陰に陽にいやがらせを受けました。

 

 決定的だったのは、聖公会との関係が打ち切られたことでした。聖公会はイギリス系のプロテスタントです。ニューヨークのアメリカ聖公会本部海外伝道部長のベントレー主教は日本に来た際、大磯のサンダース・ホームを訪ねており、関係はすこぶる良好でした。

ところがそのベントレー主教からアメリカ聖公会からのいっさいの援助を打ち切るという通告を受けたのです。全米48州の各教区の主教たちにも同じ通告が出され、日本のエリザベス・サンダース・ホームには援助しないようにと通達されました。

当然日本聖公会にもエリザベス・サンダース・ホームを支援しないようにという通達が来ましたが、日本聖公会とは深い信頼の絆で結ばれていたので、関係断絶には至りませんでした。

 

◇渡米のためのビザが下りない!

 澤田さんが初めて米国講演のため、渡米を計画した昭和27年(1952)、日本はまだ占領下にあったため、なかなかビザが下りませんでした。米軍が混血児問題に触れてほしくないので、澤田さんの渡米に難色を示したようです。渡米の予定日が迫ってきたので、澤田さんはしびれを切らして、米国大使館に催促に行きました。

 

「国連大使を務めている澤田廉三の妻がビザを出していただけないということはどういうことでしょうか。私にビザを出すのはふさわしくないというのでしたら、夫も国連で日本代表の席に着く資格がないということでしょうから、夫に辞任して帰国するようにと電報を打ちましょう。私は国際世論に訴えてでも闘います」

 強硬な訴えを受けて米国大使館が折れ、とうとうビザが発給されました。以来、澤田さんは毎年数か月、アメリカに講演と寄付金集めに行っています。

 

 澤田さんのエリザベス・サンダース・ホーム運営はGHQとの闘いによって進められたのです。岩崎彌太郎の血を引く不撓不屈の精神がなければ、陰に陽に掛かってくる圧力は跳ね返せなかったでしょう。また国家を代表する外交官の夫人だったからこそ、米国の理不尽な対応に対しても闘うことができました。やはり澤田美喜でなければ、こうした難関は切り拓けなかったのです。

澤田美喜2

写真=不屈の闘志を燃やした澤田美喜さん


エリザベス・サンダース・ホーム正門

沈黙の響き (その114)

「沈黙の響き(その114)」

エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

神渡良平

 

 

◇不思議な人望を持つラッシュ教授

不思議なことは続くもので、澤田美喜さんがニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会のチェーズ司祭と同じように、兄妹のように親しくしていたポール・ラッシュ教授も米軍少佐として来日したので、100万人の援軍を得たような気になりました。

 

ラッシュさんは大正14年(1925)、関東大震災ですっかり破壊された東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館を再建するために来日しました。美喜さんはそのころラッシュさんと知り合って親交を結ぶようになりました。ラッシュさんはその仕事を終えると立教大学の教育宣教師となり、同時に経済学教授として教壇に立ちました。

 

人づきあいがよくて仲間作りにたけたラッシュ教授は各大学で教えるアメリカ人やイギリス人の教授たちと「日本外国人教師連盟」をつくりました。また彼らに働きかけて、各大学にESS(イングリッシュ・スピーキング・ソサエティ)をつくって英語劇を行うなど、活動範囲は全国に広がっていきました。

 

ラッシュ教授のオーガナイザ―としての手腕はなかなかなもので、聖路加(せいルカ)病院のルドルフ・トイスラー院長の手助けもしました。トイスラー博士は明治33年(1900)、米国聖公会の医療ミッションとして日本に派遣され、築地の粗末な木造病院で医療活動をしていました。しかし一日も早く、現代医療設備が完備した米国式の病院を建てたいと念願していました。

そのために必要な資金はざっと計算しても265万ドル(現在の貨幣価値で130億円超)です。博士はそれをアメリカの市民や民間団体から集めようと、ラッシュ教授に声をかけました。

130億円という途方もない金額が集められるものかどうか、皆目わかりません。頼みの綱は米国聖公会です。このイギリス系のキリスト教団体は初代大統領ジョージ・ワシントンを初め、アメリカの上流階級に信徒が多いことが特徴です。初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスも、進駐軍の総帥ダグラス・マッカーサー元帥、あるいは超富裕層のモルガン家も熱心な信徒でした。

 

昭和3年(1928)、トイスラー博士とラッシュ教授はエンパイアステートビルの36階にオフィスを構え、米国の政財界に寄付を呼びかけました。トイスラー博士の人脈は広く、3年間で予定額をほぼ達成し、これを資金にして、昭和8年(1933)、新しい聖路加国際病院が新たに開院しました。

 

日本に帰ってきたラッシュ教授は八ヶ岳の清里高原に、青少年を訓練するキャンプ場をつくる構想を立ち上げ、キープ会を設立して募金活動を始めました。そして清里のグラウンドでアメリカン・フットボールを教えました。そのため、後年ここがアメリカン・フットボールの殿堂と言われるようになりました。

 

◇エリザベス・サンダースさんから寄贈された献金

ところで日本政府から大磯の別荘を払い下げるという通知をもらった澤田さんは、400万円の金策に走りました。もちろん財産を処分し、欧米で買い求めた油絵や貴金属、外套などを売り払って当面の200万円を工面しました。

 

そのころ、三井家の子息の養育係(ガバネス)として働いていたイギリスの女性エリザベス・サンダースさんが76歳で他界しました。エリザベス・サンダースさんは大正の初めに一度英国に帰国しましたが、再度請われて来日し、再び三井家に仕えました。以来33年間、一度も祖国に帰ることなく働きました。

サンダースさんは日本での40年間の勤労で得た全財産170万ドル(約6億1200万円)を日本聖公会の社会福祉事業に遺贈したのです。

 

エリザベス・サンダースさんが遺贈した寄付金の活用を任されたのは、同じ英国人のルイス・ブッシュ早稲田大学教授でした。そのブッシュ教授の親友だったポール・ラッシュ教授が米軍の将校として再来日していました。ラッシュ教授は親友の澤田さんから、大磯の別荘を買い取って混血孤児を養育したいという構想を持っていると聞いていたので、ブッシュ教授に澤田さんがやろうとしている社会福祉事業に役立てたらどうかと進言したのです。

 

◇海外の友人たちに手紙を送って孤児院開設の寄付を募る

美喜さんは海外の友人たちに日夜ぶっ通しで5千通もの手紙を書き、戦争孤児たちの養育院を開きたいので、財政的な援助をしてくれるよう頼みました。美喜さんは不眠不休で手紙を書き続けたので、目は因幡(いなば)の白うさぎのように真っ赤な目になったといいます。

 

美喜さんはニューヨーク時代、ニューヨーク聖公会の日本部の委員長を務めるなど、交友範囲は広かった。それでも5千名もの宛先を知っていたとは思えません。おそらくラッシュ教授が聖路加病院の寄付に応じた団体や個人の宛先を教えたのではないかと思われます。

 

ラッシュ教授のアドバイスはとてもきめ細かく、

「募金を依頼するにはただ印刷物を送るのではなく、1枚1枚タイプして、心を込めて丁寧にサインを入れること。それに記念切手を集めておいて使うこと」

などと伝授したようです。

 

美喜さんの訴えに応えて、海外からの義援金は1万5千ドル(当時の金で約540万円)に達し、第一の関門を突破できました。しかし、海外からの送金を管理していた人が着服して使い込んでいたことが発覚し、善意が踏みにじられたこともありました。世情が混乱していたこともあって、船出は容易ではありませんでした。

美喜さんは買い取り資金の残りの200万円を、カリフォルニアで成功した日系二世の実業家から1か月1割という高利で、しかも米ドルで支払うという法外な金利で借り受けました。

 

日本聖公会はブッシュ教授の進言を入れて、サンダースさんの献金をそっくり澤田さんに贈り、孤児院開設の一助としました。澤田さんはサンダースさんの遺志に感激し、彼女の名前を冠して、施設をエリザベス・サンダース・ホームと命名しました。

 

ホームの発起人には聖公会関係者のほかに、ダグラス・オーバートン横浜副領事などの名前も入っています。ポール・ラッシュ教授をはじめ、彼の人脈がずらりと並んでいます。そういう人々を動かす力があるというのも、美喜さんならではです。彼女でなければ、GHQや日本政府を動かして、ホームを設立することはできなかったでしょう。

設立は昭和23年(194821日、澤田さんが46歳のときでした。

エリザベス・サンダース・ホーム正門 

写真=大磯駅のすぐそばにあるエリザベス・サンダース・ホームの入り口

 

 


澤田美喜さん

沈黙の響き (その113)

「沈黙の響き(その113)」

孤児院開設に向けてGHQと交渉

神渡良平

 

◇煮え切らないサムス准将

澤田美喜さんの交渉の相手はGHQのマーカット経済科学局長、クロフォード・サムス公衆衛生福祉局長(翌年4月、軍医准将に昇格)、それに財閥解体の推進役である渉外局のウェルチ大佐などです。孤児院問題は公衆衛生福祉局長を務めていたクロフォード・F・サムス准将が管轄しており、マッカーサー元帥の絶大な信認を得ていました。

 

 澤田美喜さんは日本の経済界を代表する三菱財閥の3代目当主久彌さんの令嬢で、創始者の祖父の血を引き継いでおり、「女彌太郎」と呼ばれていたほどに勝気で、全然気おくれなどしません。昭和22年(19472月、サムス准将に訴えました。

 

「大磯の岩崎家別荘を戦争孤児の施設として活用させていただけませんでしょうか? この子たちは日本の国籍を持っている日本国民です。私ども日本人が責任をもって子どもたちを育てます。どうぞあの別荘を使わせてください」

 外交官夫人としてイギリスで活動していたころ、医師のバナードス先生が運営する孤児院に通って奉仕していたことを話しました。

 

「そこはとても孤児院とは思えないような、森の中の広い別荘でした。あれだったら収容される孤児も卑屈にはならないでしょう。私は大森にある旧岩崎家の別荘を活用して、そういうレベルの孤児院を始めたいのです。どうぞお力を貸してください」

 

 ニューヨーク聖公会のウイリアム・チェーズ司祭の忠告を守って、混血孤児という言葉は使いませんでした。

「あの別荘は財産税として物納しているので、すでに日本政府の所有になっています。GHQの許可がなければ、払い下げてもらえません。旧敵国日本からの米国移民は禁止されており、ましてや戦争孤児の米国移民など許可されません。戦争孤児たちは日本で養育するしかないのです」

 

◇「米軍が引き揚げるとき、戦争孤児たちも連れて帰るおつもりですか?」

しかし、准将は言を左右にして、別荘の使用を承諾しません。そこで美喜さんはいささか皮肉を込めて言いました。

「それではもし准将が、米軍が進駐を終えて日本から引き揚げるとき、米兵を父とした子どもは全員連れて帰ると確約されるなら、私は大磯の別荘を活用することは諦めます。どうでしょうか? 確約されますか?」

 

 米軍は引き揚げるとき、問題となっている混血孤児を連れて帰国するなどとは毛頭考えていません。小柄なサムス准将は返答に窮して話題を変えました。

「われわれ米国はこの6月に起きた福井地震の被災地にペニシリンやダイアジン軟膏を送って救済しているよ。われわれ公衆衛生福祉局がいかに日本人を救っているか、この例を見たら一目瞭然だ」

 

 美喜さんはにんまりほほえんでお礼を言いました。

「福井地震の救援にすかさず動いてくださって、ありがとうございます。私も新聞やラジオで知って、とてもありがたく思っています。それで福井地震の救援でなさっていることを、この戦争孤児の救済でも行っていただけませんか?」

 

 GHQから神奈川県庁や大磯町に圧力が掛かっていたのです。

「GHQは、混血孤児は全国に散らして、一か所に集めるなと言われているようですが、ほんとですか? 地方では混血児を施設に受け入れないところが多いのです。

私どもは孤児院を開設するとまだ決めていないのに、九州や北海道から大磯までわざわざ連れてこられます。やむなく預かるのですが、孤児院が開設できるかどうか、まだ不透明です。子どもたちは一度捨てられて悲しい目に遭っているのに、また捨てるなんてことは私にはとてもできません。ことは急を要しています。どうぞ、開設させてください」

 

 美喜さんの押しの強さに、サムス准将はとうとう気分を害し、

(日本人の分際のくせして、この私に抗議するとは何たる不届き者だ!)

 と言わんばかり、美喜さんに灰皿を投げつけようとしました。もしそうされたら美喜さんもハイヒールを脱いで投げ返そうと思いました。まさに土佐の異骨相(いごっそう)的反応です。

 

ところがそのとき館内に非常ベルが鳴り響きました。火災時における非常訓練を告げるベルです。准将も即刻、退去しなければならないので、緊張した空気ははぐらかされてしまい、喧嘩にならずにすみました。

 

 それから数日して、澤田さんはまたサムス准将の部屋を訪れ、申し入れの結果がどうなっているか尋ねました。ところがスタッフは、

「その件についてはすでに日本政府に申し渡してある。追って連絡があるだろう」

 と、返事するだけで要領を得ません。澤田さんがやむなく部屋を出ようとすると、准将の部屋の入り口の席に座っていた若い女性秘書が、澤田さんにそっと紙切れを渡してくれました。

 

◇若い女性秘書が渡してくれたメモ

 澤田さんはそれを外套のポケットに入れてエレベーターで一階に降りると、日比谷の交差点の信号が青に変わるのが待ち遠しい思いで、帝国ホテルに駆け込みました。そして小さな紙切れを取り出して読むと、こう走り書きされていました。

(あなたのご計画どおりに進んでいます。来週中にははっきりした通告があるはずです)

 

 澤田さんは胸の高鳴りをはっきり感じとることができるほど、興奮しました。そのときの様子を澤田さんは『母と子の絆――エリザベス・サンダース・ホームの30年』(PHP研究所)にこう書いています。

「冬期の航海の荒れ狂う波にただよう船が、かすかな灯台の灯を見たような思いとでもいえようか。今はじまろうとしている大仕事の上に、ひとすじの光がそそぎ、その前途を明るく照らしてくれたような気持ちであった」

 

次の週の終わりに、マッカーサーの司令部から、特令により日本政府が決めた価格で大磯の別荘を買い取ることができるという通知が届きました。しかし、所有権は岩崎家ではなく、日本聖公会にするようにとの指令です。財閥家は3代にわたって、別荘の所有は禁じられておりました。

 

GHQの指示を受けて日本政府は譲渡価格を400万円と提示し、そのうちの200万円を6か月以内に、残り200万円を3か月以内に支払うようにと命じました。敗戦直後の経済事情のなかで、そんな大金が即金で支払えるはずがありません。

澤田美喜さん

写真=GHQに掛け合った澤田美喜さん