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全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

沈黙の響き (その72)

「沈黙の響き(その72)」

森信三先生を世に紹介した芦田恵之助先生

 

 

≪『修身教授録』同志同行社版の序文≫

令和3年(2021)3月、拙著『人を育てる道――伝説の教師
徳永康起の生き方』が致知出版社から上梓されました。それに先立ち、私は日ごろお世話になっている方々に、徳永先生の信条だった「教え子みな吾が師なり」と扉書きして送りました。

それに雑誌『致知』4月号が全ページ大の出版予告を出してくれていたので注文が相次ぎ、半月余りで5百冊もの本に扉書きして送りました。そうした中に元小学校・中学校の教師の田村晃(あきら)先生があり、昭和14年(193912月、同志同行社から出版された『修身教授録』(全5巻)に同社の芦田伸三社長の父・芦田惠之助(えのすけ)先生が寄せておられる序文を送ってくださいました。芦田先生とは今でいう綴り方運動の元祖みたいな人で、子どもたちに作文を書かせて、その能力を引き出しておられました。

 

この序文は残念ながら平成元年(1989)3月に発行された竹井出版(現致知出版社)の初版には掲載されていなかったので、私は初めて拝見しました。芦田先生の序文はとても核心をついており、ぐいぐい引き込まれました。

芦田先生が読まれた斯道会(しどうかい)発行のガリ版刷りの『修身教授録』とZ、昭和12年(1937)ごろ、森先生が大阪の天王寺師範学校の本科で人間学を講義Zされ、それを生徒たちが筆録筆記したものに筆を入れてでき上ったものです。これをご自分が主宰されていた月例勉強会である斯道会で、出席者で読み、討論するためにごく少部数ガリ版印刷されました。

 

≪同志の教師たちの所依経にしたい!≫

その一部を森先生が芦田先生に送ったところ、芦田先生は瞠目し、ぜひともこれを自分たちの機関誌『同志同行』に連載して全国の教師たちに知らしめ、さらに連載完了の暁には同社から出版して同志の教師たちの所依経(しょえきょう)としたいと申し出られました。所依経とは拠りどころとなるお経のことです。

芦田先生とはわが国の国語教育の第一人者で、多年にわたって全国的に教壇行脚を続け、教師たちにモデル授業を披露されており、教師の間で絶大な支持を得ておられました。教師たちにモデル授業をし、乞われれば飛び入り授業もされ、実際どういうふうに子どもたちに対しておられるかを示しておられました。

 

 ≪芦田先生が子どもたちに接する様子≫

 芦田先生は輝やいたお顔で絶えずニコニコしておられ、そのニコニコ顔が教室の雰囲気をつくっていました。このニコニコ顔に接して子どもたちは緊張感が取れ、何でも自由に先生と交流できたようです。

それに芦田先生は子どもたちの回答を聞くとき、ゆっくりと「そうなのね」と相槌を打たれました。まるで親身なおじいさんのような言いっぷりです。「そうです」という権威めいた言い方や「よろしい」という返答とも違って、いかにも「いたわり深い、底の底まで抱擁しつくしている心持ちのあらわれ」という感じがほとばしり出ているようです。だから自然に子どもの心を解きほぐし、親しみを感じさせ、安心を覚えさせました。

これは見学している教師たちが口をそろえて述べる感想です。だからモデル授業をやってほしいと、全国から引っ張りダコでした。その芦田先生が森先生に出会い、そのご著書を読んで、ぞっこん惚れ込まれました。

 

≪森先生を師として仰いだ芦田先生≫

森先生は京都帝国大学大学院卒の突出した秀才でしたが、まだ京都や大阪周辺でしか知られていませんでした。だから全国的に有名な芦田先生がぞっこん惚れ込んで紹介されたので、森先生に着目する人が全国的に一気に増えました。同志同行社版の序文に芦田先生はこう書いておられます。

 

「ここに私が年来遺憾としていましたことは、我ら同志間の所依経とすべきもののないことです。所依経と仰ぐ典籍を持たないことは、実に淋しいことです。それとともに行も進みません。

 私はたまたま森先生の『修身教授録』を拝して、これこそ私が年来求め来たりしものだと思いました。朝夕に読誦景仰(どくしょうけいぎょう)すべき書であると思いました。幸いにその刊行を私にお許しくださいました。この上は、私の一生をこの書の流布につとめて、同志と共に、教育革正の行にいそしもうと存じます。

 

 私はここまで書いてきて、安んじて死ぬることができるように思います。天下の同志は、必ず今後の私の行動に熱烈なる支持を与えてくれるに違いありません。同時にわが小学教育者、ことに若き教育者の群れが、幾多救われていくことだろうと信じます。

 

 したがって次代を形成する小学生の幾十百万が救われることを想望するとき、私は嬉しくてたまりません。『正しからざる教育は悲惨だ』と年来唱えてきた私は、ここまで書いて、涙にペンの先が見えなくなりました」(※歴史仮名づかいは現代仮名づかいに、旧漢字は常用漢字に改めました)

芦田先生が『修身教授録』を自分たちの所依経としたいという熱烈たる思いが行間から伝わってきます。この出版によって芦田先生が長年かけてつちかってこられた全国の同志同行の教師たちに森先生の『修身教授録』が知れ渡っていきました。(続く)

全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

写真=全国各地でモデル授業を行った芦田惠之助先生

 

 


52歳で旅立っていった石原裕次郎

沈黙の響き (その71)

「沈黙の響き(その71)」

石原裕次郎の最後の曲「わが人生に悔いなし」

 

 

 昭和61年(1986)夏、銀幕の大スター石原裕次郎さんが作詞家のなかにし礼さんをホテルに呼び出し、歌作りを依頼しました。なかにしさんはまだ裕次郎さんの歌は手がけていませんでしたが、菅原洋一の『今日でお別れ』や細川たかしの『北酒場』などを書いており、人生の深い色合いを描くのには長けています。

 

石原さんは脂が乗り切った52歳、絶頂期を迎えていました。ところがそれとは裏腹に体調がすぐれず、一向に良くなりません。実はそのころ裕次郎さんはガンに蝕まれていましたが、掛かりつけの医者も周囲もひたすら隠して告知しなかったのです。

 

しかし、本人はうすうす感じていました。

「みんな何も言わないけど、俺はガンに罹っているんじゃないか。まだ52歳だよ。人生はこれからおもしろくなるというのに。ここで死ぬわけにはいかない」

生に執着したものの、死期が迫っていると予感していました。

 

 だからなかにしさんは、これはただの新曲依頼ではなく、「俺の最後の歌になる」という思いが込められていると直感しました。企画を聞いて、

「裕次郎さんが発している死の匂いをすくい取らずして、どうして作詞家だと言えるか!」

 と、歌詞に彼の思いを織り込もうと奮闘しました。

 

「俺は夜遅く帰宅すると、台所で独り飲み直すんだよ。日本酒をトクトク注いで、食器棚に映る自分に乾杯してね」

 そんな言葉の端々から裕次郎さんの日常を感じさせる情景を歌詞に織り込んで、新曲のフレーズを書きました。それは18年前、1969年、フランク・シナトラがポール・アンカの作詞による『マイウェイ』を絶唱して世界大にヒットしましたが、なかにしさんはそれを予感して歌詞作りしました。

 

  ♪鏡に映るわが顔に/グラスをあげて乾杯を/たった一つの星をたよりに

  はるばる遠くへ来たもんだ/長かろうと短かろうと/わが人生に悔いはない

 

 作曲をお願いした加藤登紀子さんに歌詞を渡すと、

「よくもこんな歌詞を書いたわね。自分の人生をふり返っての絶唱よ」

 と驚かれました。それはそうでしょう。裕次郎さんは自分の死に直面しながら、逃げも隠れもしていませんでしたから。加藤さんはなかにしさんの真意を理解し、すてきな曲を書いてくれました。

 

  ♪この世に歌があればこそ/こらえた涙いくたびか/親にもらった体一つで

  戦い続けた気持ちよさ/右だろうと左だろうと/わが人生に悔いはない

 

 でも裕次郎さんの周囲にいる人たちは難色を示し、「これは死に臨んだ歌だ。ちょっとまずいな」と躊躇しました。ところが誰よりも本人自身が気に入ってくれ、採用しました。なかにしさんはリハーサルのとき、裕次郎さんに注文を付けました。

 

「この歌は未練を断ち切り、一人の男として達観したように歌ってほしい」

 裕次郎さんはその意図するところを受け止めて素朴に歌い、実にいい味に仕上がりました。

 

 昭和62年(1987421日、「わが人生に悔いなし」と名づけられた新曲が発売されました。裕次郎さんは一切の未練を断ち切って、あっけらかんと歌いました。そこには男らしさがあふれていました。歌は大ヒットし、カラオケの上位にランクされました。

 

裕次郎さんはそれからわずか3カ月後の717日、肝細胞ガンで亡くなりました。訃報を知らせるテレビニュースには、元気だったころの裕次郎さんの映像とともに、この曲が流れ、の最後のメッセージとなりました。

 

  ♪桜の花の下で見る/夢にも似てる人生さ/純で行こうぜ。愛で行こうぜ

生きているかぎりは青春だ/夢だろうと、現実だろうと/わが人生に悔いはない

わが人生に悔いはない

 

 青春のシンボルであり、戦後を象徴する大スターだった裕次郎さんの死は国民に大きな衝撃を与えました。811日、東京・青山葬儀場で行われた告別式には1万人以上のファンが詰め掛け、テレビには泣きはらす顔が映し出されました。別れを惜しむファンに裕次郎さんは、「純で行こうぜ。愛で行こうぜ。生きているかぎりは青春だ」と、どこまでもポジティブに歌い掛けました。(続く)

52歳で旅立っていった石原裕次郎

写真=52歳で旅立っていった石原裕次郎


田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

沈黙の響き (その70)

「沈黙の響き(その70)」

ベートーヴェンを突き動かした霊感

 

 

 

以前の章の「ベートーヴェンの失意と奮起」で、ベートーヴェンは32歳のとき、難聴に悩んで前途を絶望し、ハイリゲンシュタットから弟カールとヨハンに遺書を書き送ったと書きました。ベートーヴェンは遺書を書き進うちに、何も達成しないままこのまま死ぬわけにはいかない、芸術のために再度挑戦しようと思い直したのでした。今回はその続きを書きます。

 

 ベートーヴェンはその後、いろいろ耳の治療を試みますが、なかなか効果が上がらず、人と話をするときはポケットから会話帳を取り出して筆談せざるを得なくなりました。音楽家にとって耳をやられるという苦境に陥って、人生の悲哀を感じさせられたベートーヴェンでした。

 

数々の名曲を書き表して名声を博したベートーヴェンでしたが、もう一つ、人生は思うようにいかないものだと痛感させられた出来事が起きました。

ベートーヴェンはその生涯を通して、家庭の幸福や両親の愛情に恵まれない人の一人でした。少年時代は大酒飲みの父親に悩まされ、青年から壮年にかけて、よき結婚を望んでいたものの、それを得ることができませんでした。

 

 結婚して温かい家庭を持ちたいという願望は40歳ごろにはいっそう強くなりましたが、とうとう達成できず、寂しい独身生活を送らなければなりませんでした。そんな彼に突然恵まれたのが、弟が遺していった少年カール(父親と同名)でした。もちろんカールには生母はありましたが、自堕落で養育できなかったので、ベートーヴェンが代わって養育することになりました。

 

 最初の間はこのカールによってベートーヴェンの父性愛が満たされたようにみえましたが子育ては簡単なようで簡単ではありませんでした。厳しすぎるベートーヴェンにカールはなかなかなついてくれず、学校の成績も悪く、何度も転校を余儀なくされました。

 

そしてとうとう落ちこぼれてしまい、こともあろうにベートーヴェンがもっとも嫌っている軍人になりたいと言いだしたのです。ベートーヴェンは激怒し、断固として反対したので、カールはピストルで自殺未遂をしました。肝がつぶれるほどに驚いたベートーヴェンは、最終的には軍人になることを許したので、カールの素行は改まりました。

カールはところを得たように生き生きとなり、上官や同僚の覚えもよく、軍人として立派に役目を果たすようになりました。

 

そんなこんなで、カールには散々手こずりましたが、カールのお陰でベートーヴェンは人間の機微を教えられ、厳格で気難しい性癖が少し是正されたようです。人生、何がプラスになるのか、私たちには皆目予想もつきませんね。

 

≪感動させられるものは上から来る≫

人生の晩年に入った18245月、54歳のとき、ウィーンでミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)と第九交響曲を中心としたコンサートを指揮しました。そのときには耳はほとんど聞こえなくなっていました。それでもピアニッシモはすっかり体を縮めてタクトを振り、フォルテでは腕を振り上げ、体全体で指揮するさまは往年のころそのままでした。

 

 演奏が終わると万雷の拍手が起こりました。でもつんぼのベートーヴェンにはその拍手が全然聞こえません。見るに見かねた歌手が彼の手を取って聴衆の方に向けてあげたので、割れんばかりの拍手をしている聴衆の反応が目に入り、演奏の大成功を知ることができました。

 

そんな仕草に聴衆は、ベートーヴェンはもうすっかり聴力が損なわれているのに、それでも指揮棒を振るったと知ってますます感激し、大拍手を送りました。

 

 それから4か月後、ベートーヴェンはロンドンから訪ねてきたスタンプと一緒に、ウィーンの森の東南に広がるバーデンを散策したとき、インスピレーションについてこう語っています。

 

「魂を感動せしめるものは上から来なければなりません。そうでなければ、それは単なる音楽で、精神のない肉体のようなものです。そうではありませんか。精神のない肉体とは何でしょうか? 塵か土塊(つちくれ)でしかありません。

精神はこの俗界から上昇しなければなりません。神の火花(註・人間のこと)はその俗界のなかにある期間束縛されているのです。

 

 そして農夫が貴重な種を託する田畑のように、彼は種を開花せしめ、多くの実を結ばせるのです。こうして豊かにされた精神は、そこから自分が流れ出ている根源に向かって昇っていこうと努力します。

 なぜならば、ただ確固不抜の努力と授けられた諸々の力をもってのみ、被造物は無限なる自然の創造者と維持者とを敬うことができるからです」

 

そう語ったのは亡くなる2年半前のことです。ベートーヴェンは私たち人間を「ある期間、俗界に束縛されている存在」と捉え、「自分の根源に向かって、俗界から上昇しなければならない存在」と思っていたのです。とても真面目な人間だったベートーヴェンの真骨頂だといえましょう。

 

≪音楽は啓示だ!≫

 ベートーヴェンはいつも自然の中で霊感を得ていました。心が落ち着く好きな場所は、ウィーン郊外のデープリング、ハイリゲンシュタット、ヘッツェンドリフ、それにバーデンやテプリッツなどでした。

抜けたようにどこまでも広がる青空、青々と茂った森、天高く屹立した山々、愛らしい音を立てて流れるせせらぎ、そこで田畑を耕して平和に暮らしている農夫の姿などが豊かな楽想を与えてくれました。また耳をつんざくような雷鳴が響くなか、激しい土砂降りを突いて、びしょ濡れになって何時間も歩きまわって楽想を得ていました。

 

彼のスケッチを読むと、そうしたことがふんだんに書かれています。それらインスピレーションの源である“根源”について、前述のスタンプにこうも語っています。

「自然が創り出したものに囲まれて、私はしばしば幾時間も座っています。そこでは尊厳なる太陽は、人間が作ったきたならしい屋根に被いかくされてはおらず、大空が気高い屋根です。

 

 夕方は赤く染まった夕焼けの空を、驚きの目を持って見上げています。私の魂は無限の彼方にある天空に向かってゆれ動いていきます。あらゆる被造物が生まれて流れ出、新しい被造物がそこから永遠に生まれてくる“根源”に向きあっているのです」

 

 ベートーヴェンの音楽に感激し、彼をゲーテに紹介したベッティーナ・フォン・アルニムに、

「音楽はあらゆる知恵、あらゆる哲学よりいっそう高度な“啓示”です」

と書き送り、1827326日、57歳でこの世を去りました。今の時代からすると早過ぎる死でしたが、ベートーヴェンはあらゆる創造の源である“根源”なるものについて、私たちに貴重なことを語ってくれたのでした。(続く)

田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

写真=田園を散策し、楽想を練るベートーヴェン

 


一世を風靡したサイモンとガーファンクル

沈黙の響き (その69)

「沈黙の響き(その69)」

サイモンとガーファンクルが歌う「サウンド・オブ・サイレンス」

 

 

 私がまだほんの子どもだったころ、つまり1960年代、ギターを弾くユダヤ系アメリカ人のポール・サイモンと、ボーカルを担当したモジャモジャ髪で背が高いアート・ガーファンクルというフォーク・デュオが歌い出しました。

 

Hello darkness,
my old friend

I’ve come to
talk with you again

 

やぁ暗闇くん、古くからの友達よ

また君と話したくて来てしまった

 

Because a vision
softly creeping

Left its seeds
while I was sleeping

 

And the vision
that was planted in my brain

Still remains

Within the sound
of silence

 

というのは、あるヴィジョン(幻)が、

僕が寝ている間にそっと忍び寄り、

かすかな痕跡を残して行ったんだ――

 

それから10年ぐらいして10代の後半、「サウンド・オブ・サイレンス」を聴いたとき、「サイモンとガーファンクルは何と哲学的で深遠な歌を歌うんだろう」と感嘆したものです。サイモンはこうした曲を書くようになった経緯をこう述べています。

「ぼくは“無音の響き”に触れてしまった――」

宇宙の根源につながっている無音の世界は、実は潤沢な創造性の泉だったというのです。ユダヤ人であるサイモンは、宇宙の根源者である“神”について考えることが多く、それが音楽にもかかわっていると気づいたのでしょう。

 

≪“沈黙の響き”が導く奥深い世界≫

心臓手術を受け、大きな覚醒をいただいてからの私は著述のなかで、しばしば“沈黙の響き”に言及するようになりました。“沈黙の響き”は創造性の源泉だと思うからです。

“沈黙の響き”に耳を傾けると、宇宙の叡智の扉が開き、清らかな泉から清水がこんこんと湧き出てきます。そして自分は地上における受信局であることに気づき、その感性を研ぎ澄まし、宇宙の叡智からのメッセージをキャッチしようとします。

 

“沈黙の響き”に耳を傾けるようになると、かすかに“内なる声”が聴こえてきます。この2つは連動しているので、自分の内側に無限のソースがあることに気づくのです。そのメッセージが音楽家の場合は曲目として、画家の場合は絵画として、作家や思索家の場合は小説や思想として表現されていきます。

 

 ミクロの世界から人間社会、宇宙までを貫く原理とその構造を探究する「システム哲学」を提唱し、世界賢人会議「ブダペストクラブ」を主宰しているアーヴィン・ラズロはこのことをこういう直接的な表現でしています。

「人間は変性意識状態に入ると、現実のもっとも深く基本的なレベルである“真空”と同化することができる」

 

ラズロのいう“真空”とは“宇宙の始源”のことで、“サムシング・グレート”(大いなる存在)でもあります。変性意識状態とは通常の覚醒時のベータ波意識とは異なり、精神や肉体が極限まで追い込まれた状態で起こるものです。事故や手術などによって生命が危機にさらされると、この意識状態になります。

 

≪変性意識状態は宇宙への入り口だ≫

 変性意識状態に入ると人間は宇宙との一体感や強い至福感などを味わい、ときにその人の世界観を一変させるほどの強烈な体験を持ちます。変性意識状態は生命の危機だけでなく、宗教的修行や瞑想によっても入ることができるので、トランスパーソナル心理学は特に力を入れて研究しています。

 

ラズロが指摘していることをトランスパーソナル心理学会の創始者の一人であるスタニスラフ・グロフはこう述べています。

「深い変性意識状態では、多くの人々が宇宙そのものの意識と考えられるような意識の体験をする」

 

 世界の最先端を行く学者たちが「沈黙の響き」に注目し、研究を深めていることは心強いことです。いえ、最近の思想界の新潮流だけでなく、哲学界の大元に位置するプラトンも現象世界は宇宙の本質であるイデア界の実相が具現化したものだと説いていると、私の友人が、 教えてくれました。世界の賢人たちはこのことに気づき、思索を深めていたんですね。人間は決して有限ではなく、無限の存在であり、自分は地上のかけがえのない受信局だと思うと、喜びがふつふつと湧いてきます。(続く)

一世を風靡したサイモンとガーファンクル

写真=一世を風靡したサイモンとガーファンクル